オーチャードホール 音楽劇『靑い種子は太陽のなかにある』

 この世って地獄。ヒエロニムス・ボッシュの世界観て、そんなものらしい。赤い、血のような幕が開くと、そこには一枚のボッシュの絵が、生きたまま留めつけられている。刃に貫かれている巨大な耳、醜いブーツの足が突き出た卵、それはやっぱり矢で刺し貫かれ、鳥のような生き物の眼がのぞく。口の中から魚が半分出ている魚。その周りに身をかがめたり、仁王立ちしたりしている男女の俳優たち。踊る彼らにセリフはないが、賢治(亀梨和也)が現れて、「ああいやだ こんな町」と歌うと、だよねと思うのである。

 スラム。1963年夏。スラムの人々が入居できる、コンクリート造りのアパートが建つ。ある日、仕事帰りの青年賢治は、足場から墜落した朝鮮人の工夫(塚本幸夫)が、セメントの中に塗り込められてしまったのを目撃する。賢治はそのことを周りの人々に伝えようとするが、恋人弓子(高畑充希)とも心のずれが生じ、思ったように事は運ばない。

 「オカリナの好きな人だった…」工夫を思い出すこのセリフで、長く、美しい1幕目が終わる。亀梨和也のセリフは、幕を閉じさせる力をすでに持っている。この戯曲を読んだとき、工夫と賢治とは、同身長、同体重の俳優で演じられるのかなとちらっと思った。でも違う。完全な他者。そして差別される人だ。賢治はその他者に対してとても近しい感情を持つ。その気持ちが2幕、3幕をひっぱってゆく。おそれず躰の中のピュアな人を出さないと絵の具が足りなくなっちゃう。もっとできる。踊り、歌、存在感、凄い人が次々に出てくるが、音楽はそれに負けない。支え、励まし、先導する。

 赤い幕は、実は観客席を360°囲んでいて、芝居は1枚の絵ではなく、一面に広がる地獄絵図かもしれない。すると、太陽のなかにある靑い種子は、「わたし(たち)」なのだろうか。