三越劇場 『初春新派公演』

 人生で二度目の新派観劇。一度目はまだ学生だったので三階席で明治一代女、ぜったいにぜったいに男の人からお金かりちゃダメと思って帰ってきたのだった。

 二度目は三列目、何よりも驚いたのが着物と、その着こなし。普段目にする着物って、男も女も、どれもなんか平たくて、アイロンかけたみたいになっているが、新派の着物は、「呼吸している」。俳優の身体を包んでふわっとしているのだ。身に添うている。着物着るってこういうことなんだなと思う。

 今日の芝居『糸桜』は河竹黙阿弥の娘糸(波乃久里子)と、その養子繁俊(市川月乃助)、妻みつ(大和悠河)の物語。市川月乃助が新派に入団したその披露公演でもある。波乃久里子水谷八重子に挟まれての口上もあった。

 原作『作者の家』が好きなので、どんな芝居になるのかなと楽しみにしていた。黙阿弥の死後、家を守る糸と、苦労しながら着実に地歩を固めていく繁俊。大水や震災が一家を襲う、その時の流れ。失われていく江戸以来の伝統。品のいい、抑制のきいた筆で、どこから何度読んでも面白い本なのだ。

 幕が開くと、そこは文芸協会、松井須磨子(瀬戸摩純)が『人形の家』の稽古をしている。ノラのセリフに聞き入っていると急にノラが須磨子になって、若い学生の繁俊を大声で呼ぶ。同郷の須磨子と繁俊、二人は、訛っている。はっ、これは笑うところだ。あの原作が明るい喜劇になっているのだ。月乃助と瀬戸の訛りが自然でスピーディ、何でもなかったようにどんどん芝居が進行していく。置いて行かれないようにしなくちゃ。芝居をやっていることが親にばれ、繁俊は朝鮮で教師になるか、河竹家の養子になるかの二者択一を迫られる。養子を選んだ繁俊は篤実につとめ、養母糸に気に入られた。というか、糸はそれ以上の微妙な感情を持つ。難しい所だよ。しかし芝居はそれを、雷の夜、蚊帳をつらせてその中に入った糸に(糸は雷が大嫌いである)、繁俊が黙阿弥の本を読んで聞かせるという陽性の場面に転化する。波乃久里子の歌舞伎のセリフがめちゃくちゃうまくて、最初に寝ながら繁俊の朗読を聞いていた糸が起き上がり、次に蚊帳を出てダメ出しをし、ついにセリフを熱っぽく合わせるという、出色のシーンである。おもしろかった。もっと立居を丁寧に演出してもいいと思う。

 繁俊は糸のほめる娘おみつと結婚する。おみつは大店のお嬢さんだ。糸が「女中に手はつかなくていい」とピシッというところで、前途の多難が思われる。糸が夢で父黙阿弥(柳田豊)に会うと、どんなに父を愛していたかがよくわかり、糸の一生を貫いていたものがはっきりした。幕切れの、体の中を死に浸食されながら桜を見るまなざしは、それを見るためだけにでも、三越劇場に行く価値がある。

 続いて『新年踊り初め』(尾上墨雪構成・振付)。新派の人々による華やかな、にぎやかな踊り。踊り全然わからないけど、石原舞子(女中のおちかさんをやっていた人)の表現に目を奪われた。大和悠河が高尾を踊る。みている観客に息を合わせるのではなく、「自分の時間」「自分の間」をこちらに見せていて、視線をさらう。集中力を感じた。月乃助は何をやっていてもうまくて、安心。踊りわからないのにすみません。波乃久里子が雪の日の踊り、透きとおるからかさの上にそっと置いた指が、やさしくてきれいだった。