博多座 『坂東玉三郎特別舞踊公演』

「杵勝三伝の内 船辨慶」

 一閃。ぴかりと光る稲妻のような鋭い笛の音。鼓の音、おおかわ(大鼓)の音。どの音も、その楽器の音域の、いちばん響く、いちばんいい音だ。地声って感じなのかなあ。鼓のことなんて、今までの人生で、いっぺんも考えたことなかった。左手でオレンジ色のひもを持って右肩の上に据え、右手で打つ。ひもっていわない。調べ緒という。うち方も複雑。左手でつかんだひも(緒だね)を、一瞬緩めて音を響かせたり、逆に絞ったり、薬指で打ったり、親指を除く四本の指で打ったり。基本、四種類の音だって。緒と表皮と裏皮、胴体が簡単に組み立てられることも、知らなかったなあ。

 おおかわの、硬い音。おおかわって、左腰のあたりに置いて、指に和紙と鹿革でつくった「指革」という物をつけて演奏される。求められているのは、高い、乾いた音。逆に鼓には湿り気が必要で(おおかわは炭であぶって乾燥させる)、時々演者が顔の前に鼓を持ってきていて、何をしているのかと思っていたけど、あれはちょっと鼓に湿気をくれているのらしい。乾・湿、乾・湿、耳に心地よく音が鳴る。全体にお能っぽい。遅れて三味線が鳴る。ぱっと華やかになる。江戸時代がきた。

 弁慶(中村獅童)、義経中村児太郎)、静御前坂東玉三郎)、みなすーっと平行移動で行ったり来たりする。すり足だ。重心が低い。ながーい柄のついた手燭の灯が、そっと動いているみたい。その灯は、命のようでもあるし、亡霊の魂のような気もする。

 静が扇を持って舞い始めると、そこに何かふわりと空気が作り出される。義経がそれを「視る」ことで形が生まれるもの。静の舞は生まれるそばから消えてゆく、だれにもしられない「こころ」のようだ。静が義経からいったん遠ざかり、ゆっくり近づくとき、この人がどんなに悲しいかと思わずにいられない。かすかに動くしずかなひとたちの、精いっぱいのおもいの表れだ。

 薙刀をひらめかし、知盛の霊(坂東玉三郎=二役)が登場、くるくる薙刀をまわす。刃の先に鬼火のような小さな稲光が宿っているみたい。この人もやっぱり手燭の灯だ。無音の、海の上に現れた幻だけど、いま生きているはずの義経や弁慶だって、瞬く灯のように消えてゆく。別離のかなしみ、滅ぶかなしみ、みな幻のようです。

 

「正札附根元草摺

 曾我兄弟の仇討。毎年正月は必ず、曾我兄弟の芝居だったんだってね。曾我五郎(中村獅童)は、兄弟の弟の方、荒っぽくて力が強いってことになっている。仇の工藤祐経を討ちに飛び出すところを、舞鶴(中村児太郎)が、とめる。鎧をひっぱりあう。それだけの話だけど、富士山の描かれた舞台の前の雛壇(なんだろう?囃子方やら三味線の居並ぶところ、山台っていうの?)が、ばーん!ふたつにわかれて武張った五郎とうつくしい舞鶴が現れる。なんか、勢いがあるのである。舞鶴の髪に、白いひし形のものが二つ、両脇に出ているのだが、これは「力紙」といわれる、強さを表わすものらしい。

 サカオモダカの鎧、という家重代のよろいを、五郎が軽々と振り上げたり、白い手の舞鶴がそれを離さなかったり、そのうちに、

   あら?

 舞鶴が嫋嫋たる踊りで、五郎を止めようとする。舞鶴、考えられるあらゆる手を使っているのね。と、興味ぶかい。

 舞台上手の客席寄りに、まな板くらいの板のようなものが置いてあって、その前に人がいる。附打(つけうち=福島洋一)だ。舞鶴と五郎が、右に左に見得をきるたび附板(つけいた)を打つ。附木を板に打ちつけて少し向こうにすべらせる。大きな音、バッタリきまるところで打つ動作が大きくなる。バタバタと連続して打つ時、片方のうった附木を振り上げると、それが空に向かってちょっと反(かえ)る。かっこいい。附木の音が見得を呼び、見得が音を引き出す。渾然一体。

 

「二人藤娘」

 まっくら。な中から照明がつくと、舞台に大きな松、その松の枝から一面に紫の藤の花が下がる。そして二人のきれいな娘(坂東玉三郎中村児太郎)。この人たちって本当は、ひとりなのかなあ。花の盛りの藤の枝の下って、ゆめみたいだよね。藤の花のにおい、あれは「うすむらさき」の匂いだと思う。そんなところに現れた二人の藤の精。手にそれぞれ、紫と白の花の飾りを持っている。花房の先をそっとにぎる手が美しい。気配がすべて薄紫。ふたりが松の木の陰に入ると、音曲がたかまる。わーすごい。悠長なこと言ってられない、どういうのか、こう、「はげしい合奏」だ。ここきっと、拍手するところだね。歌舞伎って、音楽もようく聴かなきゃ、損しちゃう。

 舞台の二人はうす紫の袂を徳利に見立てて、すこしお酒を飲む。お酒もきっと薄紫色なんだよねと思う。可憐。手のひらサイズの魔法の少女たちって感じでした。