東京芸術劇場 プレイハウス 『スウィーニー・トッド  フリート街の悪魔の理髪師』

 「流しの下の骨ェ見ろ!」

 こどもの時、こわかったよね、かちかち山。こわかったけど、心のどこかが少しすっとする。悪への希求?大人に抑圧された復讐心、悪を閉じ込めている真っ黒い小箱が、ちょっと開くのだと思う。

 『スウィーニー・トッド』も、こわい話だ。

 床屋の主人ベンジャミン・バーカー(市村正親)は、無実の罪で流刑となり、奸計をめぐらした判事のターピン(安崎求)に妻子を奪われる。帰ってきたバーカーはスウィーニー・トッドと名を変え、また床屋を開く。客として訪れてくる筈の判事とその手下の役人ビードル斉藤暁)ののどを掻っ切って復讐するためだ。

 曲がもの凄く難しい。家に帰っても歌える節なんかない。工場の機械が規則正しく、複雑に動いているような曲、次第に無機的だったその機械に魂が乗りうつる。機械は「有機的」に見えてきて生きものめき、それがロンドンの街の一人一人に還元していくみたいなのだ。その感じは「人」が「人肉」になるのと逆だ。双方向から大都市が、貧民街が、工業化が語られているような気さえする。前半、むずかしすぎてついていけなかった。

 楽しくなるのはがらがら声の一途な女ミセス・ラヴェット(大竹しのぶ)が「もったいない」と言い出してからだ。この陽気な悪趣味な盛り上がり、こわいと思いながら目が離せない。すっとする。もっとお祭りみたいにやってほしい。心の中の暗い小箱がそっとあく。終幕、愛するものを抱きしめる市村正親は突然青年のように、底なしに二枚目に見える。皆が皆、眼をつぶされた小鳥のような芝居だったな、と思いながらふと我に返る。暗い。「流しの下の骨ェ見ろ!」そもそも始まりから暗くて、「そと」から音が聞こえていて、ここ、ボイラーの中、あの心の裡の小箱の中だったんじゃないの?