新国立劇場小劇場 『 「かぐや姫伝説」より 月・こうこう、風・そうそう』

 別役実著『言葉への戦術』による安部公房『友達』講読。いちんち8時間やった。楽しかったなあ。田舎の高校生、そんなに芝居見に行けないもん。

 というようなことを思い出しながら、新国立劇場小劇場。舞台に竹。地についてる竹が30本程。中空にういている竹がその半数くらい。竹の子の気分。地表からお兄さんお姉さんの竹を見上げる感じ。舞台にははだらに照明があたる。風の音。竹の葉擦れ。

 下手奥から老爺(おきな=花王おさむ)と老婆(おうな=松金よね子)が、蓆を持って登場。二人とも年老いて、様子はぼろぼろだが、意外に挙措やセリフが清らかな印象で、「いま」の人なのか「むかし」の人なのか混乱。二重映しなのかな。

 アフタートークの演出宮田慶子の話では、別役実が「ドローンがね。」といったそうだ。ドローンか。ドローンて、ラジコン(?)に高性能のカメラ搭載してて、いろんなところに入り込んで、何でも映すやつでしょう。この芝居は、「むかし」である「いま」と、「いま」である「むかし」を遠く俯瞰したり、近くアップにしたりしながらドローンさながらに映し出してゆく。作中の「粟粥」や「黒豆」はアップだ。「いま」も「むかし」も同じもの。何度食されても変わらない。(夫と妻によって、二重に食べられるけど)しかし、ミカド(瑳川哲朗)が朔太郎の「竹」を誦したり、風魔の三郎(橋本淳)の人格が二つに分かれたり、人身御供が二人だったり、全ては二重にぶれ始め、そのうち、「いま」が「むかし」の果てなのか、それとも「いま」は「むかし」の祖(おや)なのかがわからなくなる。面白いけどむずかしく、難しいけど面白い。「ぶれ」のヒントになぜ映像を使わなかったのだろうか。呪われた物語の巡り、それは終わりも始まりもない、いつか見た揺れる幻影なのだ。