博多座 『坂東玉三郎×鼓童 幽玄』

 お能の鼓の拍子は、続けて強くたたかないのがものすごく印象的だ。同じ間合いで、つぎもやっぱり大きないい音が来るだろうと、観客の身体が予測して待ち受けているのに、それをすかすように、外すように、ごく小さな、デリケートな拍子が鳴る。受け手のアンテナの、極大と極小を、連続して揺さぶってくる。そうするとそのあと現れた演じ手が、振れの合間から、揺らめき出てきたみたいに見えるのだ。演じ手の心の産毛がそそけ立つ極小の世界と、演じ手の立つ曠野の広がりが、同時に目に浮かぶ

 舞台下手から静々とすり足で登場した14人の太鼓の打ち手は、両手の撥を交互に素早く動かし、太鼓の縁から真中まで、音の大きさをちがえて鳴らし続ける。小さい時は、観客席の咳きで聞こえなくなりそうな、微かな音だ。なんか、儚いなあとさびしくなってきそうだ。しかし、そこに集中し、心のチューニングを合わせることはできない。太鼓はまた、激しく、大きく鳴るからだ。あの、能のこころの揺れる感じ、それが太鼓で演じられる。下手から上手、上手から下手、一人ずつがおなじフレーズを続けて打って、音が渡る。笛(能管?)。お謡い。うすい水色の着物に、やわらかい黄褐色の袴をつけた若い人(白龍=花柳壽輔)が長い竿を持って登場した。まわりに踊り手がいて、白龍を囲んで船になったりその舳先で割れる波になったりする。白龍は見つけた羽衣を天人(坂東玉三郎)に返そうとしない。弱音の拍子がうつくしいが、天人が近づくと拍子が激しくなる。お謡いが、ブルガリア合唱みたいだなー。和音じゃないけど合ってるみたいな。不協和音なのに美しいみたいな。

 天人の冠から飾りの瓔珞が4本垂れていて、それがちらちらし、白い顔と赤く彩った目元を照らす。その揺れで、体全体が不安定に見える。そのせいでお能っぽく見えなくなるのは残念だけど、いるのかいないのか、この人、というところに気持ちが行くのはいい感じだ。天人は二つに分かれた太鼓の山台(?)の間に消え、返してもらった羽衣を身に着けて舞う。うつくしい。能面というのはこういう人のこの一瞬を永遠にするために考え出されたんじゃないかと思うなー。天人が足を上げて地を踏む、きっぱりと。扇を広げると飛んでるみたい。まわりに踊り手が来て、扇を動かすと、確かに風が起き、天人を高い所へ運んでいく。踊り手たちの扇が集まって、霞や雲になる。ふりかえる扇の美しさ。そして、銘々が扇をぱちりとしまう。あれ、今のゆめだったんじゃないのとその「ぱちり」の仕草が云う。

 裸足で腰に太鼓を斜めに提げた人たちが並ぶ。黒いベロアのような、ビロードのような、躰に貼りつく服だけれど、全然肉感がでない。太鼓を叩くのに必要な、厳しい筋肉が見て取れるだけ。なんというか、颯々としている。大きさも皮の張り方も違う太鼓は、色もばらばらだ。右足を少し前に出し、左足で体を支える。右の踵が少し浮いている人もいる。太鼓を聞いているうちに、観客席をさまようように、灯がやって来る。両手に灯を一つずつ持って、ゆっくり舞台に迫ってくる人々。ホリゾントに灯が這い登る。千灯供養を思い出す。弔っても弔っても消えない妄執。道成寺の娘(白拍子坂東玉三郎)は、邪恋の妄執で蛇体に変わる。蛇に変わっちゃったりしたら相手どんびきだし、恋にならないよね、とちょっと思うけど、「恋」と「恋の執念」は、別のものなのかもしれないな。愛ってホントに手に余る。

 金の烏帽子をかぶり、胸に小さな太鼓をつけて娘が踊り始めると、確かに女は太鼓を鳴らしているけれど、舞台に響く鼓童の太鼓の情炎に、鳴らされてもいるのだと思う。そのまなざしは蛇であって、同時に女でもある。そして彼女は太鼓なのだ。扱いかねる重い情念が、さっと舞い上がり、若い打ち手三人(颯々としている)のつくりだす仏像の前で、消えたように見えた。

 このあと、今回のプログラム中で、唯一、思い切り大きな太鼓を打つシーンがある。石橋の獅子を予告しているのだろうか。白いカシラがするすると現れると、揃えた前髪がふわっと風で乱れ、この鬘がどんなに軽いか(扱いにくそう)がはじめて感じられた。4人の獅子は鬘の両端をしっかりと手に持ち、くるりくるりと毛を振ってみせる。横に体を倒すように傾けたり、上下に首を振ったり、かしらは生き物のように鮮やかに動く。柿色の袖。白地に五色の袖。おおきな模様の金銀に光る上衣。白と赤の牡丹の花を持って美しく舞い納める。カーテンコールが何度も続いた。