武蔵野市民文化会館 大ホール 『ブルガリアン・ヴォイス アンジェリテ』

 不揃いな雪。堅雪、牡丹雪、どんな雪だってよく見ると形は不揃いだ。綿毛のような雪は身をゆすって回転しながら落ち、大きな雪は直線的にゆっくりと地面を目指す。細かい雪は風に流されて横ざまに下へ、下へと落ちてゆく。一つとして同じ雪片はないけれど、雪は緩やかに、夢みたいに、皆で呼吸をあわせて、息をつめながら降ってくる。

...っていうのが、すごーくブルガリア合唱みたいだなと思ったのは、一週間前に東京に大雪が降ったせいだと思うけど、2曲目のTHI VJATAR VEE『風が吹いている』という悲しい(たぶん)歌で、群唱をリードする人が進み出てコブシの利いた節を声を寂びさせながら歌い、その歌をほかの19人の声がデリケートに包んだ途端、脳がショートしたみたいになって、メモしようとしていた手は「雪」と書いたまま止まってしまったのだった。まるで、ゆっくり息づきながら降ってくる雪の野原の真ん中にいるみたいだったよー。

 20人の歌い手が、思い思いに意匠を凝らした民族衣装を着ていて、それぞれの好みが鮮やかに出ている。ベールは光沢のある赤、光沢のない赤、黄、青、白い帽子の人もいる、それをちいさな花の造花が飾っている。袖なしのワンピース様のものを着て、それを銀色の素敵なバックルのついたベルトなどで留めてある。ワンピースの下には美しい刺繍のブラウス、ワンピースの前には豪華な刺繍のエプロン、スカートの下から長く、あるいは短く、縁に刺繍のあるシュミーズがのぞいている。

 舞台には譜面台が一つ置いてあり、その上に何か載せられている。何だろと思っていたら、それはピアニカで、指揮のゲオルギ・ペトコフが、曲の始まる前に数音鳴らすのだった。

 歌い手は半円形に指揮者を囲み、下手に高音、上手に低音の人が並ぶ。ペトコフは左手で、高音部の難しい節回し(こぶし?)を細かく指示する。反逆者を隠す森の木の歌(LISTINI SE GORO)では、4つ、5つと主調が枝分かれするように終わる。例え二人で掛け合いのように歌っていても、それはブルガリア合唱なのだった。蜂の冬籠りの様子の歌(DAMBA)では、蜂のぶんぶんいう羽音を皆でスキャットして、一人が進み出て主調を歌う。ときどき、目を見かわして、笑顔になる。段々、指揮者の手が、繊細な音の絵を描いているように見えてくる。

 アンコールの、日本の『故郷』の前に歌った歌は、とても抽象的な難しい感じがした。こだまのようで、夢のよう。その夢には声がある。ブルガリアでは、何もかもが声を持っている。それは家の柱だろうが風だろうがパン種だろうが花だろうが同じだ。ブルガリアンヴォイスとは、こうした黙っているように見えるものたちの声を聴きとって歌うことなのだなと思う。