さいたまゴールド・シアター番外公演 『ワレワレのモロモロ ゴールド・シアター2018春』

 「稽古で一度も台詞を正確に言えたことのない俳優が、本番で台詞を正しく言えるはずがない.そんな実例をぼくは知らない.したがって本日の配役は変更します」2015年4月6日蜷川幸雄、稽古場の蜷川さんの写真を一枚一枚眺めていたら突然、赤ペンで書かれた厳しいメモと目があった。これはネクスト・シアターとの公演『リチャード二世』でのメモだけど、ゴールド・シアターに対しては、どうだったんだろう。

 というのも今日、俳優の台詞が出てこなくなるという瞬間が、いくつかあったからで、それはまるでガンジスのように向こう岸の見えない大河で、ボートを漕いでいるうち、するりっとオールが手から滑り、川へ落ちてしまったような感じ、きゃー、はやくはやく、オールを拾って、と思い、詰まった当人と、その相手役の手が細かく震えているのに、こちらも台詞が飛んで脳に霧がかかった人のような心持になり、それから「演劇」の「おぼえる」を基にした河の広大さにくらくらする。それはちっとも嫌な感じではなかった。しかし、完成度は落ちるよね。狎れてはだめ。

 岩井秀人の企む「私演劇」は、うまく働いているシーンもあれば、そうでないシーンもある。例えば「飢え」(舞台奥のリンゴとマスカットとオレンジが「飢え」へのお供物のように見える)はなかなか伝わらないし、激烈な戦争体験は「まとめられている」感じがする。しかし、大串美和子(大串美和子)が訥々と、「女としては愛せないかもしれないけれど」と語ると、ずどんとこちらの体に、ドーナツのような穴が開く。没落した家の娘、五十代まで家計を支え、身の振り方を考える女。誰の人生もひとくちでは語れない。日々つるつる生きているこの私の中にも「劇的」があり、「劇的」の渦中にいる人の中にも「つるつる」があるのだと思った。