渋谷TOHO 『万引き家族』

 この映画って、「フリーハンド」だなー。

 定規やコンパスを使って作られた映画じゃない、まっすぐに引いたつもりの線でも少し曲がり、随時紙の凹凸を拾って太くなり、質感が出てしまう。「家族」「絆」ときれいに整理された「概念」を、「万引き家族」の、時におずおずした、時にのびやかなフリーハンドっぷりが揺さぶり、照射する。

 街の底に沈んだぼろ家で暮らす、寄せ集めの家族の遠い空を見上げる視線の屈託なさ、明るさ、それを知っている観客は終盤、定規を引いて繰り出される言葉の数々に、(ちがうちがう)と反論する。あの時曲がっていたあの線のゆがみ(ふれあう足先)、それが証拠だ。掠れて消えてしまっているいくつも引かれた輪郭(きいろいワンピース)、それが証拠だ。

 隅々まできちんと役者に演じられているのがかんじられる。特に安藤サクラは骨太にこの映画を支え、後半気の強い、負けてない女を演じた。しかし、前半の「産みたくて産んだわけじゃないといわれたら」というセリフと、ゆり(佐々木みゆ)を抱きしめて縁側にいるシーンが今一つ。ここ、たぶん信代の重層性、表情の亀裂(自分も虐待を受けた可能性、産めないこと)を見せることができたのにと思ってしまう。蜜柑が効果的に使われ、治(リリー・フランキー)の飲むコーヒーの湯気がとても温かい。緒方直人、もっとその場の空気を体に通して。

 細野晴臣の音楽がきらきらしたのん気な空気を不意にゆがませる。「家族」という物は本来フリーハンドで、「すて」たり「すてられ」たりを不意のゆがみのように繰り返しているものかもしれない。だけど、それじゃあ定規とフリーハンドの狭間のゆりはどうなるか、映画は鋭く怒気を発するのだ。