劇団民藝 『時を接ぐ』 (岸富美子・石井妙子『満映とわたし』〈文藝春秋刊〉より)

 どうする民藝!

 どうした丹野郁弓!

 どうなってる黒川陽子!

 …と、縺れてなかなかほどけない焦燥感でいっぱいになって帰ってきた。まず、私が「若いほう」に数えられる客席がいかん。幅広いおきゃくさんに来てもらわないと。たまに若い人みても「関係者の孫だな」としか思わない。いまどき、客席で本を開いているような若い人、それは特殊な人だ。

 丹野郁弓の演出は、雑然とした「生き始める前」の大道具、小道具を見せる。それは風に吹き攫われるように儚い「現在」を示しているのだろうと思うけど、このような流儀、まえも見た。まあでも、世阿弥だって同じ演出ずっとやっているのだから、構わないといえば構わない。映画への愛が薄い。

 岸富美子の『満映とわたし』を読んで一番印象に残ったのは、無名の映画編集者であった岸が、「李香蘭はどんな人でしたか」「甘粕はどんな人でしたか」と訊かれてばかりで、自分の人生の一部を截りとられ、ほかの人の「映画」に差し出し続けだったのを、「とりもどす」「人生を一つにつなげる」ってところだった。日本人が仲間を陥れるところも強烈だった。黒川陽子の脚本は、「貧乏で苦労」「女として苦労」「戦争で苦労」と総花式で、岸(日色ともゑ)の人生の表面を撫でるだけ、その割には甘粕(境賢一?好演)の演説はとても長い。家族が卓袱台を囲むシーンでは、民藝の若い俳優も、そこまで若くないとわかってしまう。甘粕だって、うまくて当然なのだ。きっと初日の前は大道具の転換ばっかり浚っていたよね。そのせいか塩田泰久、子供の芝居ちょっと雑。