上野の森美術館 『フェルメール展』

 「俺は空気を描くけん。」

 と、デルフトのフェルメールが言ったかどうだか、たぶん言わないけど、ほかの画家たちが挙って「絵」を描く中、フェルメールは見えない「空気」、確かに空間を充たしているのに、とらえられない自由な広がりを画面に定着しようと苦労した、ような気がする。

 見えるものを絵にするその構図、その細密、その迫真、どれにもフェルメールは辟易していた、んじゃないの。中でもヘラルト・ダウのような「匠気」(腕前を見せつける)には「どうなんだろうなあ」、エマニュエル・デ・ウィッテのプロテスタント教会内部の絵には「空気ないじゃん」、その他いろいろには「絵でしかないし」と思っていたに違いない、と私は見ながら考えた。

 『リュート調弦する女』、リュートをつま弾くぽろん、ぽろんという単調な音、糸巻を締めるかすかなきゅぃぃという糸の溜息が聴こえ、聴こえるにもかかわらず女の心はそこになく、窓の外の気配に集中している。誰も聴いていないやわらかな音は部屋を充たし、黒い椅子の、光を受けた鋲の列のように規則性がある。

 空気を絵の中に取り入れるには、全てのものが正確に、あるべき姿で、あるべき位置になければならない。『手紙を書く婦人と召使い』、ここでは白がとても重要で、厳しく使われている。窓からの光を受けて明るく輝く召使いの白い詰まった首元と袖、女主人のパフスリーブと優雅な被り物、この輝きで一層明らかな黒い額縁、引き締まったものの輪郭。頃はきっと春から夏、召使いの前の空白にある空気、主人のテーブルの前にある空気が、強いコントラストの中にはっきりと存在する。召使いは自分の物思い、自分の見る景色に向かって放心している。ここには主人に見せない自分一人の世界がある。もしかしたらこれは誰にも見られなかった、なかったような一瞬なのか。