新橋演舞場 『二月競春名作喜劇公演 華の太夫道中   おばあちゃんの子守歌』

 『華の太夫道中』 

美術 伊藤憙作。

 パンフレットの作・演出・題名の次に、その名の出ているのを見て、(あー、そうだろうなあ)と感じ入る。

 だってこの芝居、必ずしも「太夫さん」が主役じゃないもん。女の人たちが代々お灯明を上げ、格子を拭き、床を磨く島原遊郭の宝永楼、そこに流れる時間、引いては「京都」そのものを描こうとしている野心作なのだ。

 そこをばしっととらえた装置。宝永楼の内部は立派。でかい。小ゆるぎもしない。柱、お仏壇、厨、細緻にまた大胆に再現された宝永楼を、男たち、女たちが嬉しそうに、悲しそうに通り過ぎていく。

 戦争が終わって三年、労働争議の喧騒にまぎれて、2万円という金で売られてきた喜美太夫藤原紀香)と、宝永楼の女将おえい(波乃久里子)の交情が、ぽつりぽつりと舞台上に現れる。

 一番よかったのは3幕の太夫の道中を控えた宝永楼のざわめきの盛り上がりだ。あっちでお客様、こちらで男衆さんが草履をそろえ(何気なくてよかったよ)、いつもと容子の違う仲居頭(井上恵美子)がはきはき働き、禿は道中の歩き方の稽古をし、すべての騒ぎが有機的な生きものめいて盛り上がっていく。ここの演出がしっかりしているので、北条秀司の意図、伊藤憙作の装置が生きる。

 すこし頭のゆっくりした喜美太夫って、ジェルソミーナ(道・1954)がモデルかな。藤原紀香、よかった。足りない子という役は、賢い女の人なら皆できる。でも暗い気持ちにならずに見られるのは、北条秀司の「品」と、藤原紀香が無心だったせいだと思う。輪違屋主人善助(曾我廼家文童)とおえいのやりとりが、よかった。丹羽貞仁、控えめすぎる。遠慮しないでも少し客席向いて。3度も同じやり取りあるから工夫して。

 

 

『おばあちゃんの子守歌』

 「日本は20世紀をもう一回やりたがってる」という意見を見て、(そうなのかなあ)と思っていたけど、この芝居観ると、(もしかしてそうなの!?)とちょっと思う。

 なぜいま一度目の「東京オリンピック」の芝居?船場の製薬会社の令嬢喜代子(春本由香)が駆け落ちする。それをおさめに駆け落ち先まで出かける喜代子の祖母節子(水谷八重子)、祖母に続いて世間体を気にする父平太郎(渋谷天外)もやっぱりやって来る。悲しいこともありながら笑わせられ、よかったなあと思ってお客さんは帰っていくのかも。それならそれで私が何も言わなくてもいいよねと考えたりする。

 でもさ、これ、実は喜代子の境涯の裏に、小説『シズコズ・ドーター』(12歳で母が自殺、父はすぐに会社の部下と再婚、家の中で孤立)みたいな話がくっついているよね?じゃあそこもちゃんとやろうよ。言わなくてもみんな体の中にその重さをおさえてないとね。話が薄くなっちゃうよ。一場の平太郎とか、苦痛がないから只の説明に。

 昭和39年、女の人の24歳から先は断崖絶壁、「こしかけ」よりも長い期間働く女は「オールドミス」だった。世界は単純で、ものさしは一つ、それが懐かしいのかな。あの新婚家庭、あんなに貧しいのにテレビあったね。

 駄菓子屋の主人(曾我廼家寛太郎)のびっくりするところ、久しぶりに体が生き生きしている人を見た。水谷八重子(声大きくね)のみが赤ん坊の抱き方上手、扇治郎はクッションみたいにひっくり返していた。伊藤みどり、台詞忘れないように。

 新喜劇、これからどうすんの?20世紀もう一回やる?21世紀も随分過ぎちゃってるけど?