劇団俳優座 第338回公演 『血のように真っ赤な夕陽』

 ごめん。前半紙芝居。それはたぶん、調べたことを、誠実に組み立てたせいだと思う。予想外のことは一つも起こらず、後半の開拓団の主婦池田好子(平田朝音)の卓袱台返しのような発言で芝居が緊迫するまで、事実の羅列をじっと辛抱する。この緊迫に至るまでの間に、たとえどんな小さなエピソードでもいい、好子の歴史、彼女の「感じ」を伝える微視的な観点が必要だった。それは彼女の卓袱台返しを支える何かだ。歴史って、大きいのもあるけど、小さいのもあるでしょ。小さい歴史が不足。

 古川健は私が背負って遊ばせていた親類の子と同い年なのだ、と思うとがんばったなと感心するが、作家として(ことに『治天の君』の作者として)みると、これまだ全然だ。絶滅収容所で自殺しようとする人を止めようとして、「自殺したら明日自分がどうなるのかわからなくなる」といったユダヤ人女性の話みたいなぎりぎりなとこや、『ヒトラー最期の12日間』のような仮借ない態度が少しあれば、最後の歌がもっと効く。いいよね、最後。

 俳優座の俳優たちは台詞のコントロールが完璧、この芝居このままラジオドラマで使える。けれど身体全部が台詞をコントロールするために機能していて、体の実感と乖離している。身体に佇まいがない。わずかに岩崎加根子の芝居が、節の高くなった黒い手、激しい労働をしてきた身体などをさらりとイメージさせる。

 下手に赤く見える煉瓦に支えられた粗末な戸、上手に闇の中に消えていく戸があって、陽の中から闇が浮き上がってくる。このセットに芝居ちょっと負けてるかな。

俳優座、若い人向きの芝居なのに、若い人全く来ていないのどういうこと?ぐずぐずしてると悪貨に(お涙頂戴の戦死ウェルカムもの)に駆逐されちゃうよ。