新国立劇場中劇場 『毛皮のマリー』

 男なのに化粧をされて、映画初出演の俳優はちょっと泣いたと生前語っていたが、寺山修司は『毛皮のマリー』で、同種の涙を一筋、少年欣也に流させて幕にする。昭和、それは明らかに男が威張っている世界で、女は劣ったものであり、女のようにふるまう者など人外の扱いだった。この戯曲は少年が女のような者へと『堕ちてゆく』構図を象ってもいて、その通俗と「ありきたり」が美輪明宏には「退屈」だったのかもしれない。美輪は『毛皮のマリー』をスパンコールのついたチュールの布地のように扱う。さっと広げたうえで、一回直角に折ってみせるのだ。折り曲げたところは色が濃くなり、縫い付けられた星のようなスパンコールは二倍になる。顕れるのは母と子だ。

 「母子関係」、噎せかえるような香のかおりのなか、母の胎内を思わせる緋い絨毯の通路や蝶が二羽映し出された緞帳がまず示される。もう逃げられない感じがここからも漂う。美輪の着るドレスは片胸が出ているのだが、それが男の平板な上半身であることが何度登場してもショッキングである。美少女紋白(深沢敦)は男女が判別しがたく作られており、マリー(美輪明宏)は女のみか、男まで、つまりセックス全般を欣也(藤堂日向)から遠ざけている。そして、紗幕の開いた世界は、まるで、美輪明宏の自叙伝の重みのようなものがそっくりそのまま観客の胸に来る。これは美輪の人生だ。嘲笑い、死んで行ったかつ子を哀れに思う心、その子を憎むどころか守ろうとする心、それはマリーでなく美輪だ。「この子をおまもりください」。「これ、毛皮のマリーじゃない」という次元をとっくに超え、私が今日観たのは美輪の全存在をかけた愛の物語である。

 ちょっと弱いところもあるが、全編にわたって美輪明宏のトーンが正確、欣也、ナイフの所作が弱い。