彩の国さいたま芸術劇場開館25周年記念 『CITY』

うーん。脱お母さん脱物語裏ニナガワ?誰が誰だかわからない、と終演後誰かがロビーでつぶやいていたけど、そこも大事な要素だったのかもしれない。

 「私の名前がわからない」世界、名づける人のいない世界、新しい、生まれたのか生まれないのかわからない世界。

 人質にされなかったことにされるのは親のない、いなくなっても誰も気づかない女たち、つまり母でないものたちだ。従来通り、物語の枠の中で母にルサンチマンを持つコレクター(内田健司)は女の右手を狩り続け、ある意味、観客をちょっと安心させる。猟奇的なものであれ、動機がはっきりしているからだ。これにたいして、あの人(井之脇海)の動機が、さっぱりわからず怖い。新しい世界を作ろうと、ぼく/おれ(柳楽優弥)を誘い続けるのはすなわち、「母のない(母を必要としない)世界」をつくりだそうとしているのか。この柳楽のぼく/おれのずれは物語(映画?)と新しい世界の二重性を表わしているのかな。わからない。蜷川が『私を離さないで』で使ったシガーロスの曲がかかり続ける。設定は何となく似ている。

 舞台には恐らく映写幕を表わす衝立が、これが人力だと思えないほどスムーズに動き続けて路地や廊下や部屋を観客に見せる。

 開演前、上手の衝立にひっそり影のたまっているところがあり、パンフレットの藤田貴大の「影がなければ光を見ることはできない」という言葉を実感した。解体していく映像、映画だね。けれど、ぼく/おれは妹(青柳いづみ)を喪わない。光/影を感じているから。それは何だろうか。

 藤田貴大、物語性否定するの?確かにマームとジプシーは「従来の」「物語る」には貧弱なセリフ術しか持ってないけれど、藤田貴大の物語いいと思うけどな。前半が長く、「物語」に効いてこない。「あの人」が、とても弱い。演出の説明不足では。