博多座 『博多座開場20周年記念 六月博多座大歌舞伎』  (2019)

 空梅雨、平日の昼過ぎ、天神をちらちら行きかう夏の白っぽい服装の人々を見ていると、気づくことがある。「今年の流行」を身につけている人が少ない。一度水をくぐった「去年の服」「おととしの服」ばかりだ。目まいのように、一年前、二年前、三年前の夏へタイムスリップする。東京みたいに、服で人品を判断されることがあまりない。「どこかに勤めている誰かの夫」「どこに住んでる誰かの妻」、地縁がまだ東京より濃く、みな服にお金をかけない。そしてなにより、東京に比べると人々は割合均一な暮らしをし、お金持ちが少ないのだ。

 1万8000円のチケット代は、ここでは2万円よりずっとずっと高く感じられる。まあ、みんな2万5000円のチケット(心の中では)買ってきていると思ってほしい。

 ――という六月博多座大歌舞伎、演目は「八重桐廓噺」「土蜘」「権三と助十」。

 なんと私今回前から一列目だった。苦手。目が合うような気がしてあがっちゃう。

 下手の端で幕を開ける合図をする黒衣の人まですっかり見える。黒衣の人が左手で奥へ合図して、下手から上手へ定式幕が開く。そこは御殿。まんなかにお姫様(沢瀉姫=尾上右近)が右手の袖を胸に当て、左手の袖の中に手を隠している。昔の女の人、写真に写るとき絶対しているよね。突き袖?。居住まいを正した時の姿勢かな。赤に刺繍のうちかけのお姫様は憂い顔、御殿のおつきの人々はほとんど表情を変えない。一人、御殿の下で取次ぎをする腰元(中村萬太郎)だけが表情をやや軽忽に動かし、男前の莨屋(中村芝翫)をお庭さきから呼び入れる。お姫様の苦痛(恋人が行方不明、嫌いな男に好かれている)を和らげようと、気散じのために莨屋を呼ぶのだ。なかなか忠義な腰元だね。莨屋、ハンサム。そしてお腰元との掛け合いも軽やかだ。御殿の奥から嫌いな男(右大将高藤)の家来太田十郎(尾上松緑)が、いつになったら殿の仰せに返事をするのだとじれきって現れ、姫の突き袖した左手を取る。えー。あんた周りのお女中に懐剣で殺されても知らないよ。狼藉もの。手を取っていいの?疑問。

 太田十郎の髷の鬢は、姉様人形の高島田のように両側に一枚に張り出し、刷毛先は水滴のようにとんがっている。この人マンガだねー。莨屋が割って入って只で莨をサービスするというと、マンガは「只が大好き」とさらに漫画になる。矢継早に6本7本と吸った太田十郎は、不良中学生のように気持ち悪くなって退散する。

 莨屋は習い覚えた三味線で歌を歌う。

 さてそれを門外で聴いていたのが八重桐(中村時蔵)、一時は全盛の花魁だったが、いい交わした夫が行方をくらまし、今は紙衣を着るほど零落している。聴こえてくるその歌は夫と自分の作った歌だ。八重桐は遊女の祐筆ですと呼ばわって面白がられ、姫の御前に出る。そして自分の廓時代の恋のさや当て、その顛末を面白おかしく「しゃべる」。喋るといっても曲に合わせて優美に手でふりをつけるのだ。男と自分を人差し指で見せる時、左手の「男」の指がちょっとだけ上に出て、背の高いこととか男であることとかを表わす。なんか色っぽかった。一瞬も休まず喋りつづけて、朋輩と喧嘩になったくだりなど、左幸子南田洋子の決闘シーンとか脳裏に浮かんじゃう。この一気呵成の感じが、はんなりしてるのに、一貫してる。きれいな女の人がいい音で早く野菜を刻んでいるみたい。

 そして、ここからがもう、謎の展開。莨屋が探し続けた夫であることを知る八重桐。敵討ちにでたのにあんた何してたの。と、突然現れた妹白菊(尾上菊之助)がすっきりと、その仇は討ちましたと言い放つ。うーん。かっこわるいよね。かっこわるい!と男は腹を切るのだった。ここ、血が出ない。(江戸時代のマンガとかだとさ、ぴゅーと血が出て怖いよね。)そのかわり、ものすごく苦悶するのだ。とても痛そう、その痛みが八重桐に乗り移る。八重桐についた霊力は、彼女を男でも女でもない、〈精〉に変える。ひるがえる着物が確かに空を飛んでいる。

 

 

「土蜘」

 松羽目もの。すぐ、やばいなと思うのだった。お能が元になってるのって、ゆっくりで荘重じゃない?ちょっと苦手。

 鏡板の松があんまりアシンメトリーじゃない。もう少しで釣り合いが取れそう。ここんとこも、ちょっとやばくない?西洋摂取の明治って感じ。西洋は左右対称にして宇宙のつり合いをとってるけど、アジア―日本はそうじゃないよね。インド音楽や邦楽を聴いていると、世界のどこかに「穴」があいてる。「みえないもの」と釣り合いをとるのでは。アシンメトリーってそういうことじゃないかなあ。と、生煮えの考えを頭の中で転がしながら、頼光(中村梅枝)の風邪ひき、平井保昌(坂東彦三郎)の登場、胡蝶(尾上右近)の舞を見守る。平井保昌の彦三郎がほれぼれするほどよかったなー。目頭に入った黒いラインが、特別に凛々しく見え、口跡がいい。頼もしげな侍だ。

 夜だというのに僧(尾上菊之助)が頼光の寝所に現れる。この僧がだんだん怪しく見えてくる。小姓が化生と気づくころには、僧の視線は、正面を向いていても、実は蜘蛛の巣のように四方八方をねめつけているような気がするのだ。蜘蛛に変身してからは、「あ、世界の穴の向こうの異界…」と思うほど、舞台の上が魔性の気配でいっぱいになる。蜘蛛の投げる糸はひゅるひゅると広がってゆっくりした花火のよう、少し悲しげに見える緊張した後見が、そっとすばやく空中の糸をしまう。そこまであわせてかっこいい。でももう蜘蛛の精も最期だ。刀で退治されてしまう。こうやってまつろわぬ民は始末されてしまったんだねー。蜘蛛そっくりの茶色の隈取、恐ろしげに開く赤い口をみながら、思ったことだった。

 

 

「権三と助十」

 近代劇だね、これ。この芝居で一番大切なのは、とにかくその場に「居る」ってことだ。舞台上には権三の家、助十の家と、二軒並びの長屋があって、軒の間に二人の商売道具の駕籠が一挺置いてある。今日は年に一度の長屋の井戸替え、住人が総出で井戸を浚っている。ふーん「井戸替え」は夏の季語か。駕籠の後棒の助十が、立て続けに文句を言うのだが、それを聞いていた権三(中村芝翫)の女房おかん(中村扇雀)が古い団扇で顔を扇ぐ速度がせわしくなる。「居る」なー。かっときて暑くなったんだ。今舞台は七月で、あおぐ風は客席にも届きそう、まぎれもなくおかんや権三はそこに居て、暮らしている。生活感と臨場感がある。総がかりで綱を引くシーンはダイナミックで笑えるし、セットの裏を廻るのもいいよね。謎解きはちょっと古いけど、会話がすっかり江戸時代なのが素敵。助十(尾上松緑)さ、なめらかに江戸弁だけど、もひとつメリハリない。猿廻し与助(中村福之助)は猿を喰うといわれたらもっとパニックにならなくちゃ。後半の「振り」じゃん。左官勘太郎坂東彦三郎)の一言目、「みなさぁん、」ここめっちゃ惜しい。もっと怖く出てくれないとね、あと大家さん(市川團蔵)、プロンプターのこえがでかく聴こえます。あたしたち、体感2万5000円だからさ。でも、一番前の靴を脱いでたお客さん、もっとお行儀よくね。映画じゃないんだから。「人」が目の前にいるんだからさー。