東京芸術劇場 シアターイースト 『ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也 プラータナー:憑依のポートレート』

 セノグラフィー=舞台美術のこと。

 あー、はいはい、学がなくてごめんなさいね、でも緊張しながらスマホで調べて、ちょっと笑った。新しい時代の難しい演劇には、新しい呼び名が必要やんねー。

 大体岡田利規という人がよくわからない。それは彼の文章(本)を読んだから。村上春樹そっくりの口吻で愧じるところがない。全然平気。そこがまったく信じられない。今日のアフタートークでは、字幕のもどかしさ(役者の芝居も観たいし、台詞も見たい)を語る観客に、「そう思われたら今日の芝居は成功です!」と朴訥にうまいこと言い、なんのことはない、巧いこと言ってるだけじゃん。

 見る人=見られる人が分かちがたく結びついているように、愛と欲望もつながりあっている。「見る」は出番のない役者から、テクニカルなスタッフから、観客から生まれ、堵列する視線は渦を巻いて舞台をとてもスリリングにする。欲望、自分の陽物を誰かに挿しいれたいという願いは、タイ国の身体の奥深くまで沁みこんだ家父長制の基になり、主人公を、身体をただ折り曲げて、一人で充足する不可能にも思えるポーズへと導く。「私」への愛。たった一つ揺るがないのは、自己の欲望だ。支配、庇護、いったい他人への愛なんて可能なのか。最後のシーンおもった程緊迫しない。生と死のぎりぎり薄皮一枚の所が見えなかった。この芝居は字幕の位置を移動してまた上演してもらいたい。審美的には「あの場所」しかないのかもしれないが、読みにくく、視線が役者から外れる。もう一回本を読んだみたいだった。タイの俳優は皆瀟洒で洗練されている。

 オレンジ色の小道具のくさぐさは、語らない、語れない人々を表わしているのだろうか、言及もヒントもなかったね、教育のない人ほとんど出てこないしね。