日本橋TOHO 『引っ越し大名』

 マンガっぽい演技、について考える。一瞬で表情が全然変わる、間が重視され大仰になるあれ。ポップでシュールな芝居に適ってる。時代劇って、戦前のものからもう「現代劇」なので、「時代劇に適わない」ってことは言わない。ただこの『引っ越し大名』には、マンガっぽい演技と、抑えた静かな演技が二重らせんのようになってた方がよかった。その分岐点のようなところに向井理柳沢吉保がいて、きびきびと集中の高い芝居をしてさっと去る。私が問題にしているのは、殿様(及川光博)が苦労を掛けた家臣山里(小澤征悦)の手を取るシーン、(おっ、藤沢周平かよ!)と思うのに、及川光博の泣き方はそれをマンガにしてしまうのである。演出の捌き方がいまいちなんだと思う。馬を見送る城下の女たちなど、衣装がとってもいいのに、なぜ於蘭(高畑充希)は登場時、貧しい服装ではないのだろうか。高畑充希、とても頑張っている。馬に乗っているときは怖すぎる顔をしているし、(うふっ)っていうキャラを封印して臨んでいる。しかし、それでもまだ、「ファンシーでポケッタブルでハンディ」な芝居しかできてない。つるつるしている。田舎から渡英して保母になった人の託児所便りでも読んでみたら。その本「ファンシー」でも「ハンディー」でもないから読めないかもね。

 引っ越し奉行を命ぜられる引きこもりの片桐春之介(星野源)、書庫から出てしばらく、メイクの目の下の隈がめだって、ほんとうに「星野源」大丈夫かと思うのである。その友人高橋一生の鷹村源右衛門は、細身ながら磊落な腕っ節の強い武士で、きちんと演じられる。トラブルを、荷物の上に飛び乗って喜ぶところ、誰も笑ってなかったが私は大笑いした。シーンの切れ目があんまりきれいでない。そのコマ要るのと何度も思ったのと、本を焼くのが解せない。古物の六角の徳利がいくつもいくつもあって、感心した。