めぐろパーシモンホール 大ホール 『THE PIANO ERA 2019』

 古式ゆかしいジャズ・ヴォーカルをたくさん聴き、それからおもむろにカイル・シェパードの曲を聴くと、

 (なにがあった)

 と、吃驚するのである。今まで自明であったはずの「曲」、「メロディという物」が剥がされ、時計の中の精密な機構が見えちゃってる感じ。なんか、小説が「ストーリー」とかを疑い始めるのと、同じ流れのような気がしちゃったよ。でも美しいピアノだね。

 今日は二年ごとに開かれているザ・ピアノ・エラという催し、「ピアノ音楽の現在と未来に出会う」という物で、黒っぽい細身の服のコーディネートできている男のひと多数。30代から40代かな。カイル・シェパード(現代のジャズ)を聴く人がこんなにたくさん、と自分の宇宙の外を覗く気持ち、「カイル・シェパード的宇宙」やね。時間通りに下手から黒い服のカイル・シェパード、ドラムスのクロード・カズンズ(燃えるような朱いシャツに黒のパンツ)、ベースの松永誠剛も黒い上下で、ささっと持ち場につく。上手側にドラムス、それからベース、下手側にピアノと、舞台中央にきゅっと集めたようにセットされている。

 半音階のメロディ。日常の皮一枚下の不安、不安の音楽だ。それとも、(ジャズわかるかなあ)と私が不安だから不安に聴こえるのだろうか。ピアノとベースが同じ旋律を歌う。高音を弾き始めるピアノ、おっと、また人の3倍速く曲に入り込みそうになる松永誠剛が、ドラムスにちょっと待ってと言われたみたいに見える。二人とも笑っている。不安を奏でる低いベース、転がるようなピアノ。不安しか聞き取れない。針の様に細く鋭いピアノの音が、松の葉を思い出させる。音の大きさは厳しくコントロールされている。

 太鼓の縁を静かに叩くドラムス、それから手で叩く音が響き、遠ざかるように、不安が(私たちの体の一部が)、そっと取り去られていく。ここ吃驚した。すごいねカイル・シェパード、音が小さくなると感じない、遠くなる。不安がどんどん遠くなっていくと、水の流れのようなものが現れて、かなしさ(?)の主題が来る。

 松の葉先にたまる水滴を連想。冷たく澄んで、きれい。世界との和解が来ました、ということだろうか。ドラムスの音が強すぎ、ベースは聴こえず、なんかそこが残念だった。

 あと3曲目がすきだったなあ。仄暗いチューブの中で演奏しているように(そのチューブの中を三人が流れていくように)聴こえる。ブラシでシンバルを叩くドラムス。暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥に照らせ山の端の月。て感じ。これ、ベースが弓で弾くとき、確かな明るみのように聴こえなくちゃいけないんじゃないの。次第にチューブの中が明るくなり、いつかそれ自体が消える。カイル・シェパードが手元ほとんど見てないのに気づく。ベースみてる、ドラムス見てる。音を見てるのだ。うーん、古典的な音楽の中に回収されていく救いと慰め、最後はそのうえに、そっと月。

 次はイスラエルのニタイ・ハーシュコヴィッツ。彼はアヴィシャイ・コーエンのバンドで、ピアノを弾いていたことで知られる。グリーンと赤のチェックの丈の短いジャケット、大きな柄のシャツ、短めのブルーのパンツという服装で異彩を放っているが、丁寧に椅子の高さとを調節し、いすのねじをとめながら、にっこりする。

 中央に据えられたピアノの上を、星のように一筋照明が照らす。そして弾き始めた繊細なソロピアノの高音の2音が、きらきらして、双子の星みたいなのである。うつくしい音に歪んだ音が、ほうき星の尾のようについてきて、ちょっと時空をたわませるのであった。どの曲も美しく、右手の逸脱した旋律を、左手の和音が包んでしまう。じつはわたし、途中で咳が出そうになって初めて気が付いたのだが、今日のライヴ、誰も咳しない。みなとても集中している。(「咳をするくらいなら今ここで息止まれ」と自分に厳命した)。ニタイ・ハーシュコヴィッツの音楽は、音は小さいけど、不思議な音色の「楽器」(ピアノだけど)から、デリケートな半音階の幻が現出する。左手の低音が、歩いている人などを表わしているように聞こえ、右手のふわっとして、でも底なしに広がる音楽が、そこにまつわりつく夢のようだった。

 最後はブラジルのアントニオ・ロウレイロ・トリオ。3組とも若いなーと思う。そして、3組それぞれに、「今までなかった音楽」を追及していて、一瞬先が読めない曲を生み出そうとしており、予定調和のない厳しさが空気中に醸成される。ありふれたフレーズとか避けてると思う。わかんないけど。

 アントニオ・ロウレイロは、急な寒さの東京に少し喉をやられていたのかもしれない。ちょっと調子が悪かったように聞こえた。ピアノが下手(しもて)、まんなかにベース・ギター、上手側にドラムス。ドラムスが響き、ピアノが消えてしまう。ベースのフェデリコ・ヘリオドロが少しアンプのツマミを調節する。一心に弾きあうピアノとドラムスがかっこいい。ドラムスのフェリペ・コンティネンティノが、揺れながら鳴りつづけるシンバルを右手で触って止め(ぴたっと消える響き)、それもすごくかっこいい。簡単なことは誰もしない。「お約束の薄皮」を剥がした音楽だ。ギザギザしたベースとドラムスの川のような流れに、ロウレイロの歌が絡む。歌が弱い。ざんねん。いかにもブラジルって感じの涼しい声なのに。3人とも動きやすそうなパンツをはいていて、丸首のシャツで、リラックスした、くつろいだ感じがする。ノリがよく分からず、むずかしい拍子に聞き入っていたら、隣の席の若いお兄さんは、身体を揺らしてきもちよく聴いていた。こういう感じか。考えるのをやめてみる。口笛を一緒に揺れる。パソコンで音を出していたけど、それについても考えない。先のわからない音楽を浴びる。あら?いいんじゃない?ロウレイロの歌も、「ひとつの装置」として聴こえてきたよ。