彩の国さいたま芸術劇場音楽ホール 『大塚直哉レクチャーコンサート Vol.3 平均律wohltemperiertの謎』

 彩の国さいたま芸術劇場の音楽ホール。一番後ろには補助席がずらっと並び、二階のバルコニーにも聴衆がたくさんいる。SOLD OUTらしい。人気の企画だ。だって平均律チェンバロとパイプオルガンで弾き分けて、こんなに充実してるコンサートって、そうないと思うよ。

 第三回の今日は『平均律wohltemperiertの謎』です。事前に配られた資料にさーっと目を通して、「唸りを伴う長3度」ってとこでよく分からなくなるのであった。長3度?唸り?舞台では調律師の人が耳をチェンバロに寄せて、丹念に調律している。上手側にいつもと同じのチェンバロが置かれ、真ん中にポジティフオルガン、下手に台の上に載せられた上等そうな(でも装飾がない、質素なのか?)木製の鍵盤楽器がある。脚部がない。なんとなく、正座して弾くところをイメージしてしまい、「すわり流し」「すわり台所」って言葉まで思い出したが、机の上に置くんだろうね。

 下手から大塚先生が現れ、さっとチェンバロに近寄る。黒ずくめ、かっこいい。スレンダー。しかし、そんな雑念を忘れさせ、一挙に音楽に集中させるチェンバロの緊張した美しい音。石造りの重々しい建物の中を、チェンバロの調べが流れるところを考える。音楽は空間を綾なして流れ、交錯する光線のよう。最近、メアリ・スチュアートの芝居観たからかなあ。美しいもんだなあとおもう。無条件に美しい。人々の思惑とか陰謀とかを越えてうつくしいもの。音楽。

 「ねっとりした重い曲が続き、(今日は)爽やかにはなりません」と大塚先生は言う。第18番嬰ト短調から。どの曲も確かに重く感じるけれど、チェンバロの中音域の音を聴いていると、とても自由で余力のある歌手の声のような心地よさがある。体の中のぎざぎざが取れるー。バッハは「今日はレッスンする気にならない」といって平均律を弾いてみせた(通して3回も)そうだ。うーん。気持ちは落ち着くよね。というか、聴けば聴くほど、「このひと、音の全体が見えてる」と怖くなる。最後の24番など、音の中に現代の作曲がもうある。(現代音楽ぽいなあ)と思ったら、大塚先生は12音階のシェーンベルクを引き合いに出していた。先生が丁寧に弾くからか、捩れたような、歪んだ気配がくらく立ちのぼってくる。特にチェンバロ。会場には平均律の楽譜を開いて、音楽を辿る人が散見される。平均律を弾くんだね。

 今日は小さなカメラでチェンバロ(プラスチックの爪で弦をはじく)、ポジティフオルガン(ふたを開けたらパイプがぎっしり、モーターで風を送る)、クラヴィコード(あの脚のない鍵盤楽器、音が小さく音楽学生の勉強用)を覗いた。どれもこれもバッハのいう「クラヴィーア」だそうだ。『平均律クラヴィーア曲集』のクラヴィーアね。そして、音をちょうどよく塩梅する(wohltemperierte)というのはどういうことかをきく。あの、なんかすごく難しかったんだけど、私の理解だと、365日にうるう年がつきものであるように、音も一オクターブを厳密に割ると、うまくいかない。あまりの分をあちこちにそっとくっつける、のかな。ごめん、素人ってこんなもん。「うるう」の部分のことをピタゴラス・コンマというんだって。何度聞いても驚くのは、「平均律」(塩梅)の手稿の表紙にいたずら書きのように書かれていた渦巻が、バッハ自ら考えた調律法だったという話。バッハ、もっと丁寧に描けー。

 長3度とはドミソのことであるそうだ。「ド」という音は「ソ」という音を含んでいるのだって。音が見える人たちはこまかくこまかく音を見分ける(「唸りを伴う」とか)のだなあと思ったことでした。