博多座 『スーパー歌舞伎Ⅱ 新版 オグリ』

 スーパー歌舞伎初見(そういう人も珍しいと思う)。けど、スーパー歌舞伎をつくりだした猿翁、三代目猿之助がどんなに創意にあふれる人であるかというのは、観てない者でも知っている。例えば宙乗りは、むかし雑誌でめっちゃくちゃ貶されていたけど、当節、みんなやるじゃない。

 緞帳は開いている。四角いアクリル板が四角くつながってアクリルの幕を成し、その向こうにピンクのオリエンタルな(裳を着てる?)女の人形と、上手側に銀色の襟巻をした黒い着物(その縁取りは赤)の男の人形が立つ。彼らの背後にはもう一枚アクリルの幕があるのか、人形を映して、行列のように見える。行列?もっと遥かな感じ、砂漠を越えてゆくキャラバンの人みたいな印象。長い旅の話なんだね。と思う。そう、この物語は自分自身に至るまでの長い旅路の話なのだ。

 ここからのオープニングはもう、圧巻だ。と書きながら、ネタバレしちゃうとつまんないかなあと危ぶむ。つまんないよね。

 杉原邦生の演出は、出力を大きく上げたり、絞ったりして、観客を驚かせながら惹きこんでいく。かるい触感まで使うの、よかった。しかし、出力を絞るところ、もっとぎゅっと絞っていい。繊細さと抒情がなければ、大胆・豪奢もひきたたない。あら、これじゃニナガワだろか。べつにニナガワになれと言ってるわけじゃないよ。

 京にあだたぬ若者藤原政清(市川猿之助)は関東に下り、常陸の国の小栗判官となって、「小栗党」という、一度しかない人生を謳歌する集団を率いている。その一騎当千の強者たちが、横山一族から花嫁を奪ったのは、一党のひとり小栗五郎(市川猿弥)が花嫁照手(坂東新吾)を恋してしまったからだった。照手には知らない男のもとになぞ嫁ぎたくないこころがある。小栗は照手に、彼女の家の者たちを説得すると約束する。

 小栗が横山の舘に乗り込み、下手に小栗党、上手に横山の家の人々が居並ぶ。衣装の冷たい薄青、ミントグリーン、後ろに藤紫に塗られた六尺棒をもつ家来たちが立って控える。このシーン、色彩がとても美しく、構図も決まってる。こういうの、どう誉めたらいいの?ステージングが素晴らしい?素晴らしかったです。

 この芝居が「超歌舞伎」なのは、封建社会では簡単に蹴散らされる「知らない人と結婚したくない」という女の子の気持ちを、周囲が共感して取り上げるところ。

 この気持ちと共感が、ごめんぺらい。「家のため」というのが真田紐だとしたら、「好きに生きる」「イヤ」が木綿糸一本くらい。小栗の遍歴や照手の苦難が、このただの細い糸を「生きている人間の一部」にするのだとしても、薄くて一幕がもたない。照手の父横山修理太夫市川男女蔵)の歌舞伎の芝居が、ものの見事に真田紐の中に「イヤ」の糸を編み込み、木綿糸はそこで女の子の髪の毛に化して愛しまれ、哀れまれる。憐れみと哀しみのこもる、素晴らしい演技だった。なかなかこの「歌舞伎」を超えるのはむずかしいねー。

 四本の足が空を踊りまわる馬、なびく銀色の旗(この旗の登場理由が、もひとつはっきりしない)、もりあがる水、鮮やかなトンボなど、ショー的な要素がいっぱいで、どれもこれもバラバラになりそうなものだけど、黒衣のような脚本の力で皆何とかネックレスみたいに繋がっている。

 最後の小栗の「気づき」、大事な大詰めではあるだろうが、わたし置いてきぼりになっちゃった。そんなにも?それと、小栗ってさいしょそんなに照手すきだった?照手はいまどき役作りこれでいいの?

 猿之助はじめ皆集中してケレンに負けない。閻魔夫人(市川笑三郎)、女郎屋女将(下村青)、どちらもよくて自然と目が引き寄せられる。商人(小栗の車を曳いてくれる)の市川猿三郎市川弘太郎の芝居が地に足ついていていい。衣装もかわいい。同系色の小さい三角っぽいパッチワーク模様だ。閻魔大王浅野和之とその事務取締りみたいな鬼頭長官(高橋洋)、一番台詞が実感もってよく聞き取れる。浅野和之の博多弁の失敗、あそこまで派手に失敗すると笑える。

 小栗党(中村鷹之資、市川男寅市川笑也中村福之助市川猿弥、中村玉太郎)これといって難はない。しっかりやっている。しかし、ひとりひとりが「ココニイル」と発信しなければ作家にただ「若い奴」とひとまとめにされて終わってしまう。一幕が光らないゆえんだ。ここ、「若い時はバカだったけど、」のシーンなのだ。でも、「バカでぺらい、」それでいいのか。仲間同士の会話とか、ほんとうすい。これは脚本のせい。しかしそれをカバーするのが役者の仕事のはず。市川笑也、まえに出る。引かないで。