「うそくさい」
ピアノの前で、聴衆に向かってシーモア・バーンスタイン先生の紹介をするイーサン・ホークの声にケチをつけるのであった。
シーモア老人の声は、どこで何をしていようとピッチが変わらず、拍は緩やかで優しく、誰に対しても同じだ。これさ、実は達人の境地なんじゃないの?ピアノの天才的才能を持つ自分と、お茶を淹れたりベッドをしまったり友人と話したりする自分を苦もなく繋げ、卑下もなく自慢もない。E・M・フォースターの「オンリー・コネクト」(ただ結びつけることが出来さえすれば、新しい世界が展ける)という言葉を地で行くシーモア・バーンスタインなのだった。イーサン・ホークはきっとここんとこで困ってたんだろうなあ。彼が現世の成功と芸術的達成の乖離について話すとき、その苦悩の表情はほんもので、映画の中で際立っている。写真が折れて、その折り目が白く、そこだけザラザラになっているような感触なのだ。
シーモア・バーンスタインは優れたピアニストだったが、50歳で引退し、ピアノ教師として生きる。名利を追う生活や、演奏会前の緊張に疲れてしまったのかな。「自分」のレンジを振り切ってしまうような重荷を捨てたのかもしれない。
ニューヨーク大学のマスタークラスでの指導は素晴らしかった。「繊細」「こまやか」の種痘(?例えが変かな?)を皆に施しているみたいだった。逸って弾いているように聞こえる女子学生が、別人のような音になったのを、シーモアがほめているのに学生がきょとんとしているのが可笑しい。すごくよくなったのがまだ腑に落ちてないのだ。才能の境を越える時ってこんなものかも。「とてもよくなった」、それは、先生、あなたの指導のせいですよ。