アソビル 『バンクシー展 天才か反逆者か』

 マスクの下で鼻に皺を寄せる。

 (ミッキーマウスやん)

 バンクシー展のとっつきは、本人の作業場と、黒いフードをかぶって思いに沈む男の顔のない人形が展示されているのだった。こんなに有名な無名の人見たことない。ネズミをくりぬいたステンシル型のボードが数枚落ちている。日本の都知事が笑顔で指さしながら写真に納まったあれの元だ。ミッキーマウスくらい有名で、ミッキーマウスくらい人気者で、でも会うのはディズニーランドのミッキーと握手する以上に難しい。機械で刷り上ってくる(映像に映る)作品を見てもちょっと引く。大量生産か。すっかり皮相な気持ちになっていた。その気持ちの頂点は、まじめで控えめな感じの女性教師が、建物から切り出したバンクシーのグラフィティ(落書き)を、うやうやしく学校の記念日に披露するところで来る。ひゃー。なんだよー。ミッキーマウスバンクシー

 しばらく肩を落としていたが、突然はっとする。なにか価値の倒立が起きているのだと気づく。これさ、つまるところ、バンクシーには関係ないよね。新婚の車が缶カラを引きずるように、バンクシーは「評価」「評判」という幾多の缶をぶら下げている。彼はミッキーに見える。彼はミッキーに見えない。それはみんな「バンクシー」に付与されたものだ。資本主義を批判し(パンクスが並んで資本主義を否定するTシャツを買う)、ウォーホールと絵画市場の商業主義を揶揄し(ケイト・モスを使ったウォーホール風の作品)、戦争に反対する(ゴルフセールに侵入する戦車)。彼は反響を待ち、評判を聞く。それは風刺作家、グラフィティの作者であればとうぜんだ、だが名声が彼を追いかけてきて、彼を骨抜きにし、金漬けの別人、或いはミッキーにしようとする。

 ここからの反転がバンクシーは非凡だったと思う。缶カラを引きずれば「音がする」ということを十二分に活用し、自動で絵をシュレッダーにかけたり、紛争地でホテルを経営したりする。しかもその反骨にぶれがない。そうでなければディストピア(?)遊園地「ディズマランド」で、こんなにも暗い気持ちになるはずがないのだ。ゾンビのような怖さを醸し出すキャンディ、池に揺れるたくさんの人の乗る船(難民を想起させる)、もんどりうって倒れるお姫様の馬車、つるつるした資本主義社会のすぐそばに、理不尽でつらい生活が棲んでいる。(そういえば三人家族に赤い照準があたっている絵をみて、バンクシーに戦争の息を吹きかけられたようでぞっとした。)

 ミッキーマウスバンクシーの共通点があるとすれば、「手がきれい」ってとこだ。作業場のスプレー缶は全然汚れてなく、作品を汚さないよう、きっとバンクシーは指先に気を付けている。そしてミッキーはと言えば、輝くように白い手袋で有名だ。

 バンクシーのこれからは、缶カラの音や量を見誤らないということにかかっている。そして、反骨の心を雪山をのぼる杭のように打ち込んでいかなければ、ちょっとでもぶれたら、いつ、なんどき、こどもに「や、あいつのてをごらん!あいつこそミッキーだよ!」って言われちゃうかわからないのである。