下北沢 スズナリ 東京No.1親子 第2回公演 『夜鷹と夜警』

 紙にエンボス加工。浅っ!というわけで、セットの鳥居が舞台に浅めに埋め込まれているように、この田舎町の市議会議員をめぐる芝居全体が、「現実」にエンボスみたいに埋め込まれている。但し、限りなく浅く。あまりにもエンボスが浅いので、全体が不鮮明でぼんやりしている。全員がいくつかの役をこなし、その役が不鮮明にぼんやりと、他の役に通底しているのだ。役もわざわざ浅めに作ってある。ここがなー。むずかしいよね。浅くないとメタな面白さが半減し、逆にその「浅過ぎ」が演劇としての成立を危うくする。開演して1時間15分後に議員の「悪評」という言葉が出て、話がくっきりするのを待たなければならない。長いよー。

 福原充則、いい台詞多すぎ。いいフレーズがばらまくように入っており、結果、どのいい台詞も頭に残らない。「無理ない範囲で人を罰したい」だの「お互い何だかわからないものを貸し借りするのが好き」だの「気が済む事なんてあるんですか」だの、佐藤B作が手をぱちんと叩く間に通り過ぎていく「いま」が満艦飾である。

 村上航の演じる自警団の過去(すすどい目をしたバンドマンが、電車に積んだままのギターに別れをつげる)がバシッとしており(エンボスが利いている)、「あれ、主役?」と思った。佐藤B作佐藤銀平も、役に「すすどい」所が足りない。このままでは、「メタで新しい演劇」「残念な演劇」の見分けがつきにくいよ。ふたりはどちらも自分の「ここ」と思う役柄の勘所に、全体重を掛けるべきだろう。それは最後のシーン、最後の台詞ではないでしょうか。

 安藤聖、体重かけているけど、それが軽い。エンボスの按配を演出に指示されてるのかもだが、その演出はどうなんだ。狙いはデコパージュでも、エンボスに見えてるよ。