シアターコクーン COCOON PRODUCTION 2020 『フリムンシスターズ』

 分断と分裂。昼と夜(輝く二丁目の看板)、右の階段と左の階段、上手と下手で高低のついた二つの赤い戸口。グレーのコンクリートを模した壁に、一際鮮やかに海が描かれる。あー、この海がいろんなものを隔てているね。沖縄と東京、ゲイとゲイでないもの、日本人と外国人、移民とそれ以外、奴隷とそれ以外、あの世とこの世、それらがみんないっしょくたになって、顔を客席に向け、一斉にダイブしてくる。

 混沌!はっきりいって、一再ならず(置き去りにされた…)と感じる。沖縄から東京にたどり着いた玉城ちひろ長澤まさみ)は夜中のコンビニで働き、コンビニの二階に住み、賞味期限切れの弁当で命をつないで、コンビニの店長(オクイシュージ)と寝ている。ちひろは引きこもりと変わらない、何もかもがコンビニエントで淀んでいる。だから目を覚ましたちひろは「どぶの中」「奴隷」と自分の境涯を一言で語るのだ。ちひろは走る、憧れのスター(砂山みつ子=秋山菜津子)と奴隷の間を埋めるべく、何より奴隷でいたくない。

 この世界では被害者と加害者は不分明だ。妹(八千代=笠松はる)は姉(秋山菜津子)の車に轢かれるが、それ以来姉を罰し続けている。店長の双子の片割れ(明智=オクイシュージ二役)はゲイを弾圧するが、子供の時にゲイに心を殺されたのだった。善悪共に渦を巻くこの作品では、あの銃を手にしたチラシのようにはカタルシスは得られない。複雑な背景の人々を結び合わせ、「自由を差し出すのはうんざりだ」という大団円に至るのが奇跡のよう。いいかえると道が細い。自由って何。そこには善悪を越えた場所、劇場がある。長澤まさみ、「それ以上」がない。身体に物を言わせる。例えば「猫背」。フィナーレ、全員に「物狂い」のような偏執的な明るさが欲しい。只事ならぬ混沌の中への置き去り感が、ここにこそ必要。