北沢タウンホール 伊東四朗トークライブ 『あたシ・シストリー』

 舞台の上がきゅっと、昭和で詰まってる。竹の庭門。物干しざおが竹のとビニールのと二段にかかる。ブリキのバケツ。上手の部屋には茶箪笥、その上に黒電話が乗っかっている。縁側の体(てい)で座椅子が四つ設けられ、ふっくらした座布団がある、と、なんかほんとにぜーんぶ昭和、しかし座椅子は皆アクリル板で仕切られてて、ここだけが令和。

 客入れの音楽は、「てなもんや三度笠」、「電線音頭」、「おしんのテーマ」などで、約10分で一巡する。もうちょっと長く編集してもいいんじゃないの。「てなもんや三度笠」、確かにすごくいい歌だけど(いい歌だった!)もっと振り返れる歌いろいろあるでしょ。

 幼稚園の頃、「てんぷくトリオ」はよくテレビに出てコントをやっていた。伊東四朗はちょっと控えめだったような記憶がある。戸塚睦夫が欠けて、テレビで三波伸介伊東四朗を見るたび、「あのおじさんはもういない」と、小学生なりにしんと考えたりしたものだった。今日はそのてんぷくトリオ伊東四朗、のヒストリーを顧みる「あたシ・シストリー」という企画だ。人々の記憶に残っているのは圧倒的に「ベンジャミン伊東」ってことになるんだろうけど、私にとっては「後白河法皇」。皺の翳まであの食えない貴人にみえた。あの役をあのように演じることができるまで、伊東はどんな道をたどってきたのか。玉川奈々福浪曲の語りで芸能界に入るまでをざっと辿る。このひと元筑摩の編集者だって。ピンク色ではないオレンジのうすーい色、もしかして洗い柿色っていうのか、袴をはいているけど、上下が揃い、同じ色。太棹三味線を肩からかけて(肩にかけてる布がお坊さんみたいに派手、)撥は鼈甲に見える。初めて見る芸能、初めて見るいでたちで、なんか(えええっ)となりました。浪曲かー。声張ってない所にきちんと声が「はいってない」感じがするけどいいの?いやいきなり文句でごめん。

 伊東四朗昭和12年6月15日台東区に生まれた。途中静岡掛川疎開したが東京に戻る。就職がうまくいかず、劇場に入り浸っていたところを石井均に見いだされ劇団に加わった。そして戸塚睦夫三波伸介で「ぐうたらトリオ」を結成したところで今日は終わり。まだ夜の部も明日もあるからって。ざんねん。配信があるそうだ。

 伊東四朗は学童服で現れた。引き戸を開けて覗くとこは、生き生きしている。11月10日昼の部のゲストは春風亭昇太だった。なんだかもう落語の会長なんだって。「若手界の大御所」と呼ばれていましたと、ちっとも偉そうでなくいう。腰軽い容子なのに重職って新しいね。伊東四朗と話し始めると、さん候承りましたってかんじできちんと面白い話をする。ここへ、伊東がさっと合いの手を入れるのだが、この合いの手がシャープ。面白いと思ったところはきゅっと捉まえ、自分にとって大して面白くない所は流し、実にいい按配で話を取る。70代までは年齢を考えなかったけど、80代になったら自分で思ったほど体に反応が出なくなったそうだ。確かに身体性はかなり落ちてる。でもこの話の切れ味、話題の拾い方の自在さは伊東の芸のたましいだ。志ん生が好きだといってたが、今まで見たいろんな人の志ん生のまねのうち、一番腑に落ちた。喋り方の真似っていうより心の真似、志ん生が自由な人だったその「自由」が、真似に出てる。

 いろんな話のうち、只で歌舞伎を見るため、上手の大道具搬入口からつーっと入って、下手の奈落へ続く階段を降り、花道の下を通って入り口へ出、戸を開けて客席に抜けるのが「こわかったねぇ」っていうの笑った。尾上松緑の楽屋を訪ね、自分たちの脚本を見てもらったんだって。「学生さんたち楽しんでおやりなさい、苦しんでやるのは私たちプロですから」かっこいい。

 てんぷくトリオと言えば井上ひさしが座付作者だったはず。いろんな話があるだろう。配信見ようかなあ。