シアタートラム 木ノ下歌舞伎 『義経千本桜――渡海屋・大物浦――』

 歌舞伎役者じゃない人が、「歌舞伎をなぞり、演じている」って、結局、どういうことなのかなー。と考える。歌舞伎の無二の型を、絶対的光明として近づく?正解を求める?そうじゃなかろ。「たったひとつ」を囲む無数のぶれ、幾百幾千の軌跡を追いかけるってことではないだろか。

 この芝居でいうと、すべては「無念を表現する」ところへ通じている。この無念がなー。ちょっとライト。まず保元平治の乱の親子おじ・甥の殺し合いを急ぎ足で説明し、平清盛(三島景太)は真っ赤な「盛者不衰」という着物を羽織っているけれど、そしてその着物を希望の星安徳帝(立蔵葉子)は重ね着させられるけれど、もひとつ、念が残らない。ぞっとする感じが薄い。知盛(佐藤誠)が薙刀を差し上げ鳥居の形を作るまでもないじゃんと思う。浄化するほどの念がないよ。知盛自身の残念も、日本の古層の「念」に届いてない。声嗄らさないで。もう一人典侍局(大川潤子)は「戸障子をあけ」てから好演するが、なんていうか、早々と「あきらめちゃってる」。諦めたらだめさ。残念じゃないとー。

 その無念、悔しさが時代を越えて引き継がれ、無言のまま「私たち」を取り囲む、終盤の演出は水際立って鮮やかである。魚尽くしもたいへんよかった(夏目慎也、武谷公雄)。

 勝者であるはずの義経(大石将弘)が、敗者でもあり、とても矛盾した多義的な存在であることが、あまり触れられずじまいだったかなあ。とにかく、前半。無害そうに架けられた弛んだ日章旗から、源平の権力者が背負う日の丸へ、そして疲れ歯噛みする知盛の袖にぼんやり浮かぶ旭日旗まで、飛躍する力、「ため」が欲しい。古い着物って怖いから、キモノ古くてもよかったかも。