KAAT神奈川芸術劇場プロデュース 『メトロポリス伴奏付上映会 ver.2021』

 わざと簡易に立てられたスクリーンの下手手前には、ビブラフォンアコーディオンピアノコントラバスがある。楽譜の上に光が当たり、四角い白さが際立っている。上手は「メトロポリス」に林立する塔のように見えるものが台上にいくつも並べられ、その円形の台座の湾曲が照らされて銀色だ。その他、即座に「電気」を思わせる配電盤のようなものが見える。下手は「木」、上手は「メタル」でまとめられ、それぞれ「技術」と「頭脳」を表わしている、かな。1927年の、この『メトロポリス』に新たに音楽をつけた(阿部海太郎)(生駒祐子)(清水恒輔)(巽勇太・装置)が登場する。黒のキャスケット帽に黒の上下、背中にはそれぞれ番号がついている。メトロポリスで働く労働者と同じだ。

 この映画を観るのは初めてだけど、「大衆と映画」について考えてしまう。大衆の指導者となるマリア(そして人造人間)(ブリギッテ・ヘルム)は映画の事じゃないだろうか。フリッツ・ラングは映画がプロパガンダとなって大衆を扇動する危険について気づいてたし、「こどもを見失う」=戦争の接近を感じてもいたし、大衆そのものが変質して全体主義となることを予言してもいる。

 人造人間の造型が美しい。程よく肉感があるのに、決して人間には見えない。マリアとフレーダー(グスタフ・フレーリッヒ)が愛を認めあう時、その目に狂気を感じる。映画――マリア――を観る眼差しの狂気の源だ。音楽は一音の間を波のように行き来して調音する冒頭から過不足ない。特に、メトロポリスの心臓部に水が出る辺りから、美しいやさしい旋律が流れていて、悲しいシーンが拒否感なく染み込んでくる。樋を流れてくるビー玉の音と相俟って、「こころ」(映画)が「手」(音楽)と「頭脳」(音)をつなぐんだなと思った。でも上手の音は、何をしているのかさっぱり見えん。残念。