東京芸術劇場 プレイハウス NODA・MAP 第24回公演『フェイクスピア』

 神の言葉はひどく遠い。

 「FAKESPEARE」という、一種の看板が、舞台の頭上高くかかっている。誰にも聞かれない言葉 を射程に置きつつ、芝居のことを考える。誰かが泣きながら語る、すると客席の私たちはその言葉を聞く。誰かが独り言をいう、やっぱり私たちはその言葉を知る。舞台で起きることはいつだってフェイクである。リア王を気の毒に思い、オセロの激情に慄える。フェイクスピアでは舞台――幕――の上での出来事が、次第にリアルに向かって手を伸ばし、「リアルの再現」を通じて現実と入り混じっていく。

 例えば「義経千本桜」の知盛の最期には、観客の時間と知盛の時間が同期する。客は死の準備にかかる知盛を固唾をのんで見守る。フェイクを見守る眼差しがひどく下世話なものに感じられる。その眼差しはフェイクスピアにもある。それって是か非か烏か、考えちゃうなー。

 憑依女優白石加代子の目の前で、次々に憑依していく男、楽(たの=橋爪功)とmono(高橋一生)、このシーンが素晴らしく、もっとずっと見ていたい。白石加代子の『声』が、この場を統べる。伊原剛志川平慈英、好きにやればいいのに、おとなしいな。「神の使い」「イタコ」「星の王子さま」、メタな構造がうまく働いていない。拮抗していないのだ。「伝説のイタコ」前田敦子は、がむしゃらに大声を出している。そうだね、まず大きい声が出ることが大切だ。品があるとかないとかいうのはそのあとの話だ。星の王子様の役が一番しっかりやれていたと思う。ついでに言うといつか見た映画の「おばちゃん」の役はあれは演技ではない。演技のフェイク、ふりである。

 あと、題材が題材だから恐る恐るいうけど、私は芝居に恐れ入っていない、題材に頭下げてる。