TOHOシネマズシャンテ 『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放送されなかった時)』

 それはコンクリートに生えたバラのようだった、と回想される。

 1969年、ちょうどアポロが月に着陸した日にも開催されていた、ハーレム・カルチュラル・フェスティバルは、高まる黒人の不満(リベラルな政治家や黒人解放運動の重要人物の暗殺、いつになっても虐げられて地位の向上しない現状)を逸らすために当局に許可された音楽祭だった。しかし、ハーレムの広い公園一杯に集まった、何万人もの黒人は、そんな「ガス抜き」とは無関係なものを、おのおの家に持ち帰る。そうだ、コンクリートに生えたバラ、「プライド」だったり「生きる喜び」だったり「暗い人生の慰め」だったりするそれは、参加した一人一人の心を暖めたけど、長いこと公にはされなかった。音楽がもたらす連帯を、今はじめてフィルムを見る私たちも感じる。カメラに映る遠景の遠景に至るまで、びっしりと会場を埋め尽くす黒人の人々の顔に現れたくつろぎと安心に、このフェスティバルがつかの間、彼らの音楽の国を現出している、と思う。音楽が鳴り響くときにしか現れないその国に、皆心を奪われる。それは見ているアジアの私たちも同じだ。そしてその国で実現しているものが、現実の黒人たちの手に入らないことは、どれだけ苛立たしいか。

 舞台に登場するスターたちはもちろんすごくヒップでかっこいいけど、観客がもう、それを越えてかっこいい。マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルの歌は素晴らしかった。でも、私はニーナ・シモンに見惚れたね。なにか怒りの光背を背負っていて、その怒りが美しく、圧倒的なのだ。

 このフェスティバルのテープがお蔵入りになってから、テープと黒人たちに何が起こり、何が起こらなかったか、語ったほうがよかった。だって、「50年」だよ。