東京芸術劇場シアターイースト NODA・MAP番外公演 『THE BEE』

 殺人犯の小古呂(おごろ=川平慈英)って、実在?てか、居るの?と終演後、頭の中が?でいっぱいになる。そして、全然別の空間の、全然関係ない小さい子供の震え声の問いを思い出す。

 ――鬼って生きてる?

 子供のにいさんは、やってることの手も休めず、生きてない、と断言してくれ、子供は安堵するのだが、いやいや、鬼はさ、生きてないかもしれない、けど、居るよ。例えば、小古呂の形で、井戸(阿部サダヲ)の中に。とか思う。確かにこの作品は9,11のアメリ同時多発テロに触発され、筒井康隆の小説をモチーフにしているかもしれない。でも、見て一番感じるのは、この芝居が、「悪」がどこから生まれ、どこに巣喰うのか、その餌は何か、一見何事もないように見える1970年代の日本(戯曲より)、1974年の日本(英語版より)にどうやってそれは現れるのかという概説だということだ。会社員井戸は妻と子を人質にされ、危険にさらされる。彼は被害者になるよりも、加害者となることを選ぶ。「殺人犯」の小古呂の似せ絵と化すのだ。このことは、戦地から帰ってきた父親たちが、何も言わないまま心に血を流し続けていたことを想起させる。「おんなこども」を犠牲にしながら成り立つ郊外の家に、鬼は「居て」、そして生きてない。恐怖と悪は仲がいい、恐怖は最もひどいことをする。

 川平慈英の刑事安直は振り切れていて素晴らしい。もっと派手にやって。川平が演じることで、後ろにうっすら「亜墨利加」が透けて見え、被害と加害の戦後を概観する働きもある。なぜあんなに早く阿部サダヲは「向こう岸」にわたり、「加害者になる」決意をするのだろう。脚本も阿部サダヲも急ぎ過ぎだよ。そこ丁寧に観たかった。すぐ「鬼」になっちゃうなんて。