下北沢 小劇場B1 good morning N°5 『異常以上ゴミ未満、又は名もなき君へ』

 「舞台」と「客席」のあいだに、ぴんと張られたビニールの幕がある。うつくしい水槽。黒いTシャツの下のスカートが、色とりどりにきれいで、熱帯魚みたいで、もっと見たいけど、役者とすぐ目が合っちゃうので、非常に見づらい。しかし、この芝居の始まる前が、めっちゃ楽しいのだ。上演開始10分前まで、昼ご飯を食べそこなった観客の心配をしているし(「いいんですか?まだ食べてこれますよ?」)、配られた3本のクラッカーはいつどんなタイミングで鳴らしてもいい。客席はほとんどが所謂「女子」で、好きにクラッカーを鳴らし、「緊張」が少ない。「女子」の「解放区」だ。こんな場所、なくなってほしくない。それには中身が大切。なのにもう、いっちょん(全然、という濃い方言)わからん。大体、わかってほしいという気持ちがあるのかすらわからん。言い方を変えると、本編が弱い。小説を書く居候の三郎(野口かおる)と男(市川しんぺー)が対で、むかしの状況劇場のような、いやそれ以上、いつもレンジが振り切れているハイテンションだ。そして吃驚するような登場をする。ある意味、登場が一番常識外れだ。(まじで気をつけなよ!)「時間」が「命」であるならば、舞台の人物たちは、命を削りながらポップなやり取りを続ける。「序盤」のない「結末」、「結末」のない海に流された「序盤」、瞬間瞬間、沸騰爆発し、芝居は爆発をつないで線を描いて途切れ目を見せず続く。けど、テンションが高すぎてきつい。こういうのが「ナンセンス」なんだと思う。でも置いて行かれちゃう。頭脳で描いた線だから。ブランウェル(ダメな男兄弟)の序盤にエミリー(ブロンテね)がすごい続きを書いたように、ブランウェルのアウトラインじゃなくてエミリーの中身、「3D」「空気」が要る。90分の芝居に拘るのならば、人物はもっと整理する。単純化が必要。声を嗄らす人は駄目。市川しんぺー、気を付ける。