シアタークリエ 『ガラスの動物園』

 「映画にいく」。トム(岡田将生)は、母アマンダ(麻実れい)と姉ローラ(倉科カナ)に何度もそう告げて、牢獄のようなアパートを脱け出す。だが、(おや?)と思うのは、「映画」にそれほど重みがつけられていないからだ。或る時は軽く、ある時は吐き捨てるように、またあるときは顔を背けて逃げるように言及される「映画」、連続性がないよ、いいの?最後にアマンダが真正面から言う「月にでも行け」っていうの、効かないけど?(そこじゃない)って意味?彼らが囚われの人々であることが大事なのかな。どっちにしろ、岡田深みが足りない。自分の役の全体の設計図ちゃんと描く。

 ここに登場する4人の人物は、いつも「映画」を観ている。トムは母と姉と暮らしたアパートの「映画」、アマンダは求婚者が山ほどいた娘時代の「映画」、ジム(竪山隼太)は花形だった高校時代の「映画」、ローラはジムの、まさに今撮られつつある「映画」。映画は何度でも観ることができる。彼らは苦しくなったら「映画にいく」のだ。アパートの非常階段が部屋の上に設定され、くの字型のそれが「逃げ出したい」という祈りの手のように見える。食堂にも居間にも格子状に分断された光が当たり、ここが誰にとっても地獄みたいな場所であることは明らかだ。しかし出てゆくことは容易ではない。だから皆、映画を観る。出て行ったものも、繰り返し上映される自分の「映画」から逃れるすべはない。映画はローラのガラス細工である。繊細で失われやすい、「思い出」のことだ。

 倉科カナ、「不器用」で「引っ込み思案」の『身体』について、もっと深く思いを凝らす。あなたのローラ、積極的だし身体きれそうだよ。アマンダ、フライパンの上で炒られるような、「苦しい生活」と「結婚しかない娘」への烈しい焦燥がもっと必要。ジム、我に返るところがとてもいい、しかし登場が少しぼんやりだ。