東京芸術劇場 プレイハウス 『hana-1970、コザが燃えた日-』

 「勧善懲悪」「正義」の裏には矛盾と混沌が貼りついてる。77年前の戦争を悼んでも、焼夷弾の落ちてこない、機銃掃射されない日常の、日々のゲームの中で敵は死に、孤独な者が他人を刺す。戦争は死なない、息づき、うごめき、いつも「いま」の隣にある。その気配を一番強く受け取る最前列、「日本」から「疎外され」「切り取られた」コザの街での、ある家族の物語である。空に歪んだ月のようにかかるアメリカ国旗の下、1970年12月20日の夜が来た。2年ぶりに実家の敷居をまたいだアシバー(やくざ、遊び人)のハルオ(松山ケンイチ)は、母ユキコ(余貴美子)が米軍の脱走兵(玲央バルトナー)を匿っていることを知る。その弟の教師アキオ(岡山天音)は新たな正義、沖縄返還などの政治にかかわっている。彼らには年の離れた妹ナナコ(上原千果)をめぐり屈託がある。終わらない戦争を生きる母の絶叫は「たっくるせ!」というその夜のコザのアメリカへの怒りの中に溶け、やがて祈りへと変わる。

 えー、この頃すごく面白い芝居を立て続けに観ていて、これもその一つ。けど、モダンスイマーズ(3000円)俳優座(5500円)て考えると、この芝居の前半のゆるさはちょっとどうよ。松山ケンイチが空気を孕んだ素敵な黒のパンツと、投げやりな感じにひらひらする柄のシャツを着て登場すると(おっ)と思うけど、学校の比嘉先生(櫻井章喜)、ルポライター金子岳憲)の古風で型通りの事情のやり取りは、何とかならなかったのか。ルポライターの言葉が軽く浮くならば、コザの人たちの傷は重く痛いはずやん。かっこいいだけじゃダメ、松山ケンイチ岡山天音、傷が浅いよ。なんていうか、身体をひねっただけで溢れ出すような痛みがない。玲央バルトナー自分の身体の「中」に集中、I’m readyという時用意ができてないと。余貴美子、終盤最高、序盤が弱い。