ザ・スズナリ 東京成人演劇部vol.2 『命、ギガ長スW(ダブル)』[長ス組]三宅弘城×ともさかりえ

 あの、「混ざる」の中にはマザーが入ってるんだよねと、恐る恐る言ってみるのは、駄洒落としてもあんまりやんという自分の心のブレーキが働いちゃうからだ。でも、松尾スズキはぶれないよ。突っ走る。そして、やりきる。

 照明がつくと、背中の曲がった痩せた老婆(エイコ=ともさかりえ)が居て、盛んに傍らの「何か」に「何か」をかけている。無対象だ。柄杓もなく、水もなく、墓もないが、それが息子の墓のように語る。しかし、その当の息子オサム(三宅弘城)が登場する。二人は「カメラ」に向かって意識しながらやり取りする。50代のニートの息子と、80代の母が、「8050問題」の渦中の人間として、ドキュメンタリー作家志望の女子大生(アサダ=ともさか二役)の素材になっているのだ。職を世話するオガワさんに連絡してくれるよう、息子に頼む母。喋る合間に音が口から洩れる。いるよね、そんな人。そしてそんな人をやりきるともさかりえ三宅弘城も未婚の50代をしっかりやる。しかし、それは誰に向かってか?その上、この芝居は、「そこじゃない」。大事なのは「混ざる」こと、「在ることと在らざること」が平気で並列され、オサムは生きててそして死んでおり、エイコは母で娘で他人で血縁で、水をかけるのは炊飯器で墓石で無対象で、キシ教授(三宅弘城二役)は実はオサムかもしれず、アサダはエイコでエイコではない。ジャージの紐が一見輪を作るように、カメラ(眼差し)の正面の「何か」は混ざって移り変わってゆく。なんか剛速球で理詰めの球を投げられてる、「ある、なし」「手を離す」件の余情とかが薄い。シャンパンと炊き立てご飯のように、強引に、有無を言わさず全てが混ざる。結局、確かなのは今私たちが、目の前で幻のような「何か」を見ていること、え、能みたいじゃん。能か!それならちょっと、マボロシの眩暈が要るねー。