劇団俳優座五階稽古場 劇団俳優座LABO公演38『京時雨濡れ羽双鳥』『花子』

 これ、どちらも、女の価値、経済の話かな。女の人はいつでも値段をつけられてきた。田中千禾夫がどんだけ女に詳しくったって、「値段をつける側」だったことは動かせない。女は雌鶏のように卵を産むよう励まされる。子を産む女は価値がある。労働力として女を「娶る」のは経済的である。処女はある地点まで貴重で値がつかず、大久保ゆき(安藤みどり)の夫はそのために彼女を自分の体制に(下位に)組み込むことができない。値段がないからだ。男にすべてを捧げるとは、男の経済のために自分に値をつけ、売り飛ばすことに同意することだ。戦前の女大久保ゆきは、傷痍軍人望月(河内浩)の妻妙子(佐藤礼菜)のように自分を売り(或いは「ゆき」として自分を守って決して売らず)、その明確な輪郭は捉えられないまま、「値段とは別の」私を探そうとする。男の視線で値踏みされない「わたし」。売り買いされない「わたし」。眼鏡をかけている、赤い服を着ている、橋の下に棲んでいる、「わたし」。大久保ゆきは売色を行っているかもしれない。そのことは警官下山くん(辻井亮人)への台詞の声音の中に現れている。

――という風に思ったので、安藤みどりの演技が、「足りない」。安藤みどり、もっと面白い人でしょ。素でいいの。値段のない素になれ。いまんとこ、いまいち、役柄が「掴めてない人」みたいだよ。「足ばかり見えてる人」たちが5000円で関係を続けるのを見て。今、素のあなたが探すなにかが、ゆきの探す「わたし」だ。

 演出は、どこを押し出したかったのかよくわからない。影絵のように「値」や「経済」が浮上してくればよかったのにね。二話目の『花子』の母(安藤みどり)の火吹き竹がかわいい。男の値踏みを膂力で押しのける花子(佐藤礼菜)頑張れ。でも、これら戦後の女も、結局値踏みされちゃうんだけどさ。