ユーロスペース 『アネット』

 「内」と「外」を、壊乱しながら『アネット』は始まる。カラックスの頭脳からうまれた映画は、「So,may we start?」という彼の声で目を覚まし、狭いスタジオで1フレーズ分過ごした後、歌い続けるスパークス(ロン・メイル、ラッセル・メイル)に先導されて、階段を下りてきたアダム・ドライバーマリオン・コティヤールに合流し、街の通りを行き、衣装を着け、役者はおのおのバイクと車に乗り、「ボン・ボヤージュ」の掛け声とともに航海へ乗り出す。このシーンとてもいい。ボウイにあわせてドニ・ラヴァンが走るシーン程じゃないけど、何度も見たくなる。強烈な速度でバイクが走る、あの速さ、オペラ劇場の奥に潜む、ほんとうの森、「オペラ」「演劇」「スタンダップコメディ」が、函の内側で起きる出来事であるのに対し、映画は「外」に出ることができる、ある意味優位性を持った表現だよとカラックスが云ってるみたいだ。内と外は混ぜられて虚実と同じくらい見分けが難しくなる。嵐の海は内側だよねー。おまけにアネットは「虚」の存在だ。あのー、文楽人形遣いの気が一瞬逸れているときの手元見たことある?人形の目が暗闇みたいに虚ろになって、あれっおサルの干物だねと思うのだ。アネットは「居て」「居ない」。仮想の父と母の心の投影のようにも見える。

 アダム・ドライバーは背が高くすらっとしていて、気難しいコメディアンを体現する。映画は何でもできる媒体なのに、ヘンリー(ドライバー)のジョークは面白いとこがない。もすこしなんとかならなかったのか。あと、シャドウボクシングが1か所空手チョップになってるよ。夜、かがり火のこちら側に、映画の人々が丸いとりどりの提灯を下げ、行列を作って野道を歩いてくる。丸い月のような反射板(?)が見え、提灯はそれに従う星々を象る。宇宙、但し、それは函の内側の、観客の私の、頭の中の見立てだけど。