土門拳記念館 特別展 木村伊兵衛生誕120年記念 『木村伊兵衛と土門拳 ―「瞬間」と「凝視」の好敵手―』

 あのー、写真展の宣伝写真、三堀家義が撮ったこの写真面白いね、「『カメラ』誌の合同審査をしていたころの木村と土門」(1954)。

 ちょっと背の低い、がっちりしたA字型のシルエットの土門拳は、何かに怒っていて、S字型にはんなり立つ木村伊兵衛に向かって喧嘩する子供みたいに下唇を突き出している。太くまっすぐなステッキを、ぎゅっと腕に引っ掛けているが、ステッキは要らなさそう。このステッキ、土門の剛直なこころみたい。木村の写真に見えてる方の右手の指は、頬にあてられ、土門をなだめているのかな。それとも風に柳と受け流しているのかも。この写真展全体が、「柳 vs 風」のように見える。三堀家義、この写真よく撮ったねえ。全てが現れているよ。

 その隣に土門の1958年のセルフポートレートがある。あの唇に煙草をくわえ、なでつけられた強(こわ)い頭髪から、あご先までが画面におさまる。背景は黒、斜め上から来る光が当たり、皮膚は質感をきっちり捉えられ、皺や、髭の伸びた様子が容赦なく写る。目の中も影になり、瞳の在処はうっすらとしかわからない。左を向いた顔の、右側のアウトラインを這い登っていく煙草の煙。何かをみようとしている顔。何でも写真にウツシテミセマスてかんじ。木村伊兵衛とぜーんぜんちがうねー。木村のセルフポートレートはカメラを放した目、なんだかきょとんとしているような目を写す。あー、この人はね、見えるものなどにそれほど重きを置いてない。見えてる中に見えないものが湯気みたいに現れると知っている。だから力まない。都会的で瀟洒な彼の世界から、真実の湯気が出る。土門はこの湯気に「勝とう」とおもった。おれはこの不可視なものを、画面上に定着する。だってさー、木村伊兵衛の「添い寝する母と子」(1959)とかすごいよ。シティ派の木村が虜になった秋田の農村の、野蛮な陰の力が皆ここにある。写っているのは赤ん坊の上に身を屈める若い母親だけど、ここに立ちのぼる湯気には、家で起きるあらゆる物事(性交、出産、暴力、愛、死)がゆらゆら揺れている。

 負けねー。と思った土門は写真を存分に意のままとる。撮ってみせると決意する。春風のように繊細で、台風の様に強引だ。セルフポートレートに、漂ってほしい雰囲気まで指定する。んー、木村を追いかけて、けっこう疲れたんじゃないかなあ。

 土門のモノクロ写真は素晴らしいのに、女優と国宝シリーズの雑誌の表紙はまずい。わずかにカメラマンの意図を解しているのは浜美枝(と信楽の大壷)のみ、あとは、どの人にも何も説明しないでがんがん撮ったっていう、乱暴な感じする。