Bunkamuraル・シネマ 『さよなら、ベルリン またはファビアンの選択について』

 上司の腹の、やっと塞がった赤紫の傷口に、白い軟膏を塗らされる。煙草会社のコピーライターであるヤーコプ・ファビアン(トム・シリング)は、そんなことまでやったのに、馘首を宣告される。この、理不尽なものを親切心から引き受ける行為いろいろが、何かとファビアンを表わし、傷は、「ドイツ」「ベルリン」、またはファビアンたちの若さそのものを暗示してる。傷口って皮膚が薄くって、その上を一筋空気が動くだけで、痛みを感じたりヒヤッとしたり、敏感になっているではないですか。このひりひりする薄さ、それを巧く出しているのが、この映画の値打ち。何もかもが薄く、近く、赤膚(はだ)だ。現代と1931年がとりわけ近接していて、一続きの赤剥けの皮膚として描かれる。ここ出色。1行でつながる「ヤーコプ」はザクセンの田舎の子で、「ファビアン」はベルリンに住むたった一人の個人だ。また、恋人女優志望のコルネリア(ザスキア・ローゼンダール)との経緯を含め各所を遍歴するファビアンの物語が、1933年、ナチスが政権を掌握するまでのわずか2年であることも、全てをやっぱりひりひりする傷口のように見せる。その上ファビアンは、第1次大戦に従軍して、トラウマを負っている。キズを忘れさせるのは享楽であり、自分自身から目を逸らすことができるのも酒色に耽り快楽に走ったそのおかげである。文章に比べると、映画は、速い。「え?」「あれ?」と思う暇がない。軟膏塗ってるとこやトイレで財布を見るシーン、何してんだろとちらっと思うだけで、映画に説得されて次へ次へと釣りこまれていく。そこは深く、暗く、眩く、嘘くさくて、本物だ。『キャバレー』(1972年)の時代なら、「退廃」とか「背徳」で済んだのが、いまとなっては文脈が変わるのに、存外に昔通りの解釈だね。ナチスと大学の悪意ある友達との皮1枚の描き方もうまかった。