東京芸術劇場シアターイースト 東京芸術祭2022 芸劇オータムセレクション ワールド・ベスト・プレイ・ビューイング 『ローマ悲劇』

 えーと、divide(分ける)、unite(合わせる)、divide、unite、頭の中を工事現場みたいに単語が点滅して、目がちかちかする。ファーストシーンこそ割らないけど、この芝居――映画――映像は、イヴォ・ヴァン・ホーヴェとカメラが力を合わせて画面を分割しまくる。なにさ、分けないでって言ったじゃん、と、『じゃじゃ馬ならし』を思い出してむかっ腹立てても無駄。こういわれてるみたいなのだ、よく見なさい、よく考えなさい。えー。

 装置はテニスコートのように広い。テレビ局の様に作られている。ソファを置いた違うセットが幾面もあり、壁際には背を向けて作業する技術スタッフが居並ぶ。俳優は男も女もニュース番組っぽいかちっとした服を着、冒頭シーンはニュースキャスターとゲストの形で、コリオレイナス(Gijs Scholten van Aschat)に負け続けのオフィディウス(Bart Slegers)が登場する。どの場面もこっそり、或いは堂々と、クレーンで、手持ちカメラで、ドリーで撮影され、登場人物のテンションが少しでも上がると、音もなくカメラクルーが忍び寄るのである。もー。テレビや民の本質かなあ。画面の中にはいつでもモニター、ガラスの反射、別のセットの人々が映りこみ、意味を二重にし、迫真の演技を分割し、又倍にする。昨日アリアーヌ・ムヌーシュキンが云ってたなあ。人は芝居を観ながら自分だけの映画を編集しているって。最初に瞳のような銅鑼が出てきたことを考える。「分けられたもの」はその意味ごと結び合わされ、瞳の奥で再生される。シェークスピアの3本の芝居が1つの時間軸に並ぶように。セット、劇場を飛び出すイノバーバス(Bart Slegers 二役)は、コロナの時代の「外・現実」と「内・虚構」を結び合わせる。演出は分割し続け、スーパーインポーズの疑問が、芝居の終わったスタジオの上を流れてゆく。疑問はいつか、答えと結び合わされないと。