猪熊弦一郎現代美術館 『常設展』

 どんな風にも描けるということは祝福で、そして厄介だ。重荷で、苦しみにもなりかねない。と、猪熊弦一郎の絵を見て思いました。今日の展示には、まず猪熊の22歳の自画像(1924)がある。これがさー、もー、めっちゃいい絵なんですよー。買うなら(買えないが)私この絵が欲しいなー。画面は明るく、黄みを帯びた白っぽい色で、服も何故かその色で塗られている。下書きの線をみると、服はどうやら着物のようだが、他の色は塗らなかったんだね。センスだね。顔の部分は、紅潮して陽に透ける耳たぶのようなきれいなオレンジでタッチをつけられている。前髪は後ろにかきやられているが、なでつけてもなでつけても立ちあがってくる的ないうことを聞かない勢いがある。若いのだ。この人自分が嫌いじゃない。自己愛とまではいかないが、「自分が好き」な気持ちが描きこまれている。けどそれが健全。なんかリンゴを噛むようにサクサクしてていやみがない。センスだよ。だってこの人の集めたおもちゃのセンスとか超一流だし。濃い眉の、さっぱりした若者が、臆さずこちらを向いている。このまま行ってもよく売れる絵を描ける画家になっただろう。だけど猪熊はそこで立ち止まった。「君の絵はうますぎる」。バイ マチス。後年、パリにわたって、そんなことを言われたらしい。うますぎる、って何か。1926年の裸婦像が自画像に続いて架けられている。平板な、日本人らしい薄い身体の裸婦は、なんか黒田清輝を思い出させるとこがある。その隣にはタッチも絵の具の量もぜんぜんちがう、うねった早い筆遣いの裸婦像。こっちの方がいいかなあ。そして展示会場をふりむくと、黒い輪郭の、ひたすら黒く、ピカソっぽい、マチスっぽい椅子に座った人々の絵がずーっと並ぶ。ふーん。「うますぎる」って言われて、諸国遍歴に出た騎士みたい。なかなか家にたどり着けない、オデュッセウスみたい。キルケーそっくりのマチスにつかまり、呻吟しながら脱け出そうとする。

 1950年代、60年代の抽象画の流行の大波は、それはすごいもんだったと聞くけれど、猪熊も抽象画を手掛けるようになった。海に騎(の)りだす小さな船さ。「うますぎる」の中に籠められた「自分とは何か」という問いのこたえを求めて、猪熊の旅は続く。でもさ、この展示では、結局、どれが猪熊弦一郎の行き着いた境地なのかわからずじまいだった。「求めて歩く」ことの中に彼の絵があるのかなー。本を読むと(そして展示のパネルでも)、いちいち画業について、すんごいピントのあった、いいこと言ってるんだけどなーと外に出る。すると三階建ての建物の巨大な壁面いっぱいに、落書きみたいに描かれた、とんぼりした、味のある馬たちの絵。これ答え?