SCOOL 劇壇ガルバ 第4弾実験公演『錆色の木馬』

 うゎゎゎ、むずかしいやん。と思い、こんな時論理的な人ならすぐ理解できるのに、と思い、鏡に向かって、鏡を持った時のことを考える。鏡の中には、鏡を持った「ワタシ」が映り、「ワタシ」の持った鏡の中にも、もっと小さな「ワタシ」が映る。一つの鏡に、一つの地平がある。その地平に棲む「ワタシ」と「カレ(ラ)」が、小さくなるにつれて少しずつ違い、ぶれていくのならば、それっていわゆる多元宇宙だよね。この芝居の(「ワタシ」と「カレラ」)はいくつもいくつも現れ、ぐるぐるして輪っかになりそう。特に、俳優(山崎一)が内向きに(或いは外向きに)空の椅子に向かって話しかける冒頭と、さいごに外向きに(或いは内向きに)台詞を言うラストが、スパッと照応していて爽快だ。

 これわからないこといっぱいある。男1(=ツチヤ、土屋康平)って実在?男2(マサノリ―ケント伯―大石継太)ってどっちがリアル?老人が俳優ってことは、たしかなのか?どのシーンが内側?そして外側?「内」「外」ってなに?こうした解らなさのうちに「ワタシ」と「カレ(ラ)」は溶解し始め、たった一つの問い、これを観ている「ワタシ」ってなにか?っていうとこにたどり着く。「人間、生まれてくるとき、泣くのはな、阿呆どもの舞台に引出されたのが悲しいからだ」っていってるよね、だとすると、俳優が、あまりにすらすらっと「俳優だわねこの人」と観客に理解され過ぎじゃない?一歩踏み出したら一歩分だけ俳優になれば?「台詞がわからないまま舞台に押し出される」俳優の悪夢にフォーカスするのか、もっと普遍的な話にするのか、そこが曖昧。あと山崎一アイライン濃すぎでは。山崎と大石の一言の台詞がすべて血が出るように生きている。土屋康平健闘、目がマジのとこと、弛んでるとことしっかりね。木馬の造型が今一つ。