東京芸術劇場シアターイースト 二兎社公演46 『歌わせたい男たち』

 「立場」。立場が変わると意見が変わる。そんなのよく見聞きすることだけど、その立場が煮詰められて、のっぴきならない人たちがいる。学校の先生だ。永井愛は国歌斉唱問題の山場を2008年に設定しているけども、私の知ってる限りでは、式を巡る厳しい対立は、90年代の初めにはもう地方でもあったようだよ。

 2008年の国歌斉唱の時の不起立問題の芝居をいま、2022年に劇場に掛けるのは、これが一過性の問題ではない、いまの時代につながる「根」であって、もっと普遍的な演劇でもありますってことかな。私の感想は、(学校の先生って、損してる)という、小市民的なものに始まり、「関ヶ原で官軍相手に戦う」国歌斉唱時に起立しないことを貫く拝島先生(山中崇)へのリスペクト、屋上が「国家」のように学校にのしかかるいびつなセットの天辺で、「内心の自由」についてマイクで叫ぶ与田校長(相島一之)を哀れに思う気持ち、と、飛び石を渡るように忙しく変化するのだった。

 これが時事的なものを通して普遍性を求める劇なのだとしたら、ちょっと問題ある。俳優の誰もが、声を胸より上、高い所から出してる。うわずってる。全てが「立場」であって、その立場から来る狂躁なのだといってるみたいだ。ひとりくらいお腹から声出してもいいじゃないか。それともいない?皆が揺れている?それが日本なの?

 拝島から眼鏡を奪おうとする元シャンソン歌手の音楽教師ミチル(キムラ緑子)の手つきがなまなましく目に残る。すべてがひっかき傷、なま傷のようだ。誰もが傷を負いながら、「屋上」からどんどん圧されていく。山中崇が追いつめられて頬をひきつらせているのがわかり、彼の歌が素直で上手い。ミチルの最後のシャンソン、もうすこし母性的でもいいかも。