PARCO劇場 PARCO劇場開場50周年記念シリーズ 『笑の大学』

 んんんん、全国巡演版(98年)を観てます。あの時も、頭の上に大きく「?」出るような作品でした。受けてたし、テンポよく、軽快で、息があってたけど、時代と「ずれていた」。まだ民主主義が大事にされ、肝心なことがこそこそ決まったりしないころだったのに、芝居は喜劇の座付き作家椿(当時は近藤芳正瀬戸康史にプレッシャーかけちゃうけど、近藤の頬の産毛が、検閲の怖さにそそけ立っているのが「見え」たよ)の時代や制約を逆手にとっての検閲に「抗う」姿勢にスポットが当たっていた。あの頃50代60代の「リベラル」の人に「うけ」るつくりで、そのようなお客さんたちの白い発光するような拍手を浴びていた。切実さも切迫感もゼロなのに。安心安全の芝居作りでした。そして今日観た芝居も景気よく「?」出る。え、戦争「やむなし」の感じなの?えええー。今こそ「抗う」やん。どんな世の中になっても生き残る三谷幸喜、この人これといって深い考えないのかも、その時代時代のご見物のお歯向きにあわせるだけで。そこ行くと自分のような賢くない一般人は、「わああああー」、教条主義にとらわれておぼれちゃう。気をつけないかん。しなないよ。戦争反対やん。今回の再演は、ちょっと…「いぼっとう(「いぼる」=ぬかるみに長靴などをとられて進めない)」。喜劇の台本を検閲する向坂(内野聖陽)の台詞が重く、瀬戸康史の声は割れている。論外。一座の皆に追いつめられている切迫感がうまく出てない。切迫感も日ごと段々に強くなるというタッチもついてない。向坂、カラスの件が一番真面目で淡々としてなきゃじゃない。「やってみせ」ない、「やる」。前世紀から生き残ってきた台詞、やり取りはさすがに面白く、客席はよく笑っていた。カラスのムサシの「おうち」が遠目からぱっと把握できず。役に呑まれるな、役を呑め。と、オペラグラスを片付けながら思うのだった。