博多座 二月花形歌舞伎 『三代猿之助四十八撰の内 新・三国志 関羽篇』

 幕一面に漢文の白文がある。読み下せはしないけど、三国志関羽の容貌に触れ黄巾の乱を語り、劉備玄徳、関羽張飛が交わした桃園での、生死を共にしようという誓いのことまでが書かれている。『三国志』かぁ。知り合いは熱烈なファンだけど、私は全然読んでない。玄徳が立派な偉丈夫で、色白く、唇は赤く、耳は肩まで垂れていた、って、そんな主人公ある?このたび初めて読んでみて(抄訳でした…)、戦国の世に群がり興る無数の野心、幾多の夢、そして潰えてゆく個々の幾千万の生命のことを、考えちゃいましたよ。脚本は恐らく、その野心の中に(夢の中に)、一つくらいは現在の「わたしたち」と似通うことを願う魂が、あったであろうというところから出発したのかもね。悪くない。「人が飢えない国、人が殺されない国、人が売られない国」、いいよね。全然異議ないです。誰もがきちんと持ち場を守り、集中した演技です。じゃあ、この背骨を這い登る、鈍い倦怠は何か?構成と演出かなあ。音楽もなあ。ツケはなんだか湿っていて、歌舞伎の反語表現としての電子音が、古く聴こえる。たとえ胡弓ひとつでもいいから、なまの音が要るよ。もっと練らないと駄目やん。

 権謀術数、勝利のために小異を捨て、手を組んだり敵に廻ったり、話の進みようが曲がりくねっていて掴みにくく、単調だ。花道近いセリからの退場も多すぎる。

 一番ほっこりするシーンは、桃の花びらの舞う中で、市川笑也がうっとり目を閉じて花の香りや日差しを浴びるとこ。そして、猿之助がそっと笑也の手を取るとこだ。笑也の顔からその日がいかに好日であるかがうかがわれ、のんびりしたやさしい時間が舞台に流れる。好い。うん。でもわたし鬼みたいなこと言いますよ。猿之助は笑也の手に触るな。包むな。触るとね、つきあってる「おねえさん」「おにいさん」たちの大人の恋愛になっちゃう。「大人の恋愛だからいいんだ」そうかもしれん。あんたがた韓国ドラマがどうしてあんなにウケてると思う。38度線を越えるのに、優れた兵士が明け方まで彷徨うのは、決して言わないけど国境の向こうへ帰らせる女とすこしでも一緒に居たいから。「ぼくは夜目も利かないし、方向音痴なんだ」男はすこし明るく言いながら、女には見えない位うっすら涙を浮かべるのだ。迂遠でしょ。迂遠がいいのだ。男と女は、いつでもがっかりするくらい「簡単に結ばれる」。だからそこんとこはもっと繊細にやらないとだめさ。あと「夫婦」って言葉も醒めました。夫婦なの?現実的やん。そんなの求めてない。一瞬で永遠の愛がみたいよ。

 関平市川團子がよくはたらき、美しく無心でいい。ダムの放水のように滾り落ちる水をかぶり続け、動きは素早く決然としており、水の中でも白い顔は光るように若い。最高です。

 この頃時代劇(テレビ)を見てて思ったのだが、激しくて深い芝居と、「品」との両立はすごくむずかしいねえ。笑也は「品」を大切にしてると思う。品が失われるのを恐れてあんまりがんがん行かないのかもね。でもそれだと、芝居がちっちゃくなっちゃうよ。兼ね合いを探ってもっとドラマティックにやってほしい。孔明(市川青虎)も孫権中村福之助)もだ。みんな前に出ないと、猿之助がヒマそうにみえない?