KAAT神奈川芸術劇場〈ホール〉 KAAT神奈川芸術劇場プロデュース『蜘蛛巣城』

 蜘蛛の巣にかかった男や女。黒澤明がなぜ自分のマクベスにその名をつけたかよくわかった。夢、野望、功名、どんな動機でも、蜘蛛の巣に魅了され、虜になったものは逃げられない。昏い運命に捕食されるのを待つ。そしてまた、人々を喰らう運命は、脆く儚く、風の間に吹きちぎられてしまうのだ。ふーん。感心。お能。翻ってこの『蜘蛛巣城』だけどさ。

 もー、声がかすかすでぎりぎりだ。今日までよく保たせたねって感じ。戦国武将や殺陣って、いつもの赤堀作品と全く違う。早乙女太一も中島歩も、「所作」と「声」でいっぱいいっぱいで、身体に感情が出ない。棒立ちだし。だめだねー。あんたがたはもうすでに芸能背負っちゃっている人。こんなんでいい筈ない。例えば大殿(久保酎吉)が御忍びで鷲津武時(早乙女太一)のもとを訪れるところ、「出会え、」という叫びに大殿に対する疑いと緊張がない。床を叩くシーンも手が痛くて効果がない。(痛そう)と思うくらい。

浅茅(倉科カナ)は、脚本から主動因が消えてるせいで、役柄に統一感がない。「疑い」でしょ。みんな、「疑い」「ふと兆す不安」を大切にして欲しい。「うたがい」が身体に入るところ、それを鷲津に注ぎ込むところ、そこが大事じゃない?そのせいで蜘蛛の巣から抜け出せない。そこを見せて。人物から人物へ、樋を渡る「感情」は水だ。実体がある。

 赤堀雅秋演じる五兵衛、百姓で小商いをして、うそもいい、「殿様かんけいない」ひと、面白かった。でもそれはもう「蜘蛛巣城」を相対化して逃げてく、「『蜘蛛巣城』じゃないひと」だよね。なんかちょっと弱くない?そこ、出城やん。『蜘蛛巣城』本丸に、もっと切り込んでほしかったと思う。黒澤蜘蛛巣城、堅牢だった。新名基浩、名前間違えない。論外。