東京都美術館 『マティス展』

アンリ・マティス(1869―1954)のごく初期の伝統的な筆致の絵、『読書する女性』(1895)は、作家26歳の作品だけど、さあっと国に買い上げられている。戸棚の上の白いランプ様のもの、ぼんやりした聖像らしきもの、茶の小さな瓶、鮮やかな緑のちょっとアンフォラっぽい水差し、吊られたランプのエメラルドグリーンの笠、すべてが丸く、ふっくらと立体的で、その丸みとやさしさは、後姿の若い女シニヨンに結った頭と、黒い服で覆われた身体を指し示している。きっとこの女の人妊娠しているな、と思わせる。いい絵なんだよね。ちょっとほしい。平和で優しく見える。でも戸棚の上に敷かれた布が少しめくれているのが不穏だよ。そこには壊れやすいものがごっそり載っている。

 マティスはこうした伝統的で見やすい絵をすぐ断念する。売れるとか関係ないのだ。『自画像』(1900)の肩の下から、背景から、群がり起こる明るい色彩に、彼はあらがえない。1896年の『ベル・イル』。マティスの「白」の中には空色が、「黒」の中には緑や茶が棲んでいることが明らかだ。『読書する女性』にあった、三次元的に見せるための壺の表面の白い光の粒や、写真立ての後ろの黒い影は二度と描かれない。そういう「陰影」への欲求はみんな、マティスの彫刻の中に引っ越してしまう。

 マティスはキャンヴァスで、二次元の具象画をとことん追求する。この人さ、煎じ詰めると「白」と「黒」の画家だったんじゃないのかなあ。

  第一次大戦の頃描かれた、窓に向かってバイオリンを弾く男の後姿は、薄い茶で塗られているが、あの茶は一種の黒だろうと思う。かなしく、くらい心の象徴だ。

 『グールゴー男爵夫人の肖像』(1924)に現れる右手の衝立の深緑もたぶん黒であり、後ろ向きの女の茶を含んだ黒い頭髪、その腕時計の革バンドの色、夫人の透ける模様の服の中を黒が這い登り、なんかこう、どうすることもできない絶望を目に浮かべている夫人の「黒の肖像」になっている。色が表す心情の、到達点のような気がするよ。

 塗り残しのキャンヴァスの白や、純然たる白は、いつも明るいきれいな色を含んでいる。塗り残しがないように気を付けて仕上げられた『赤の大きな室内』(1948)は、赤がセンス良くていい感じだ。諧調であかるく、描かれたものたちも雑然とは見えない。花瓶の花の余白の白が効いているんだね。それに比べると初期の代表作で物議をかもしたという『豪奢』(1907)は、「余白」「塗り残し」が意味不明だねえ。

 こんなセンスのいいひとなら、教会の設計も頼みたくなるよね。彼の意匠のステンドグラスから、黄色と青と、ちょっぴり緑の光が差し、彼にとっての「光」が、ほんとは何色だったかを教えてくれる。