TOHOシネマズ日本橋 『TAR ター』

あのー、クレヨンみたいな油性の、太い芯の色鉛筆あるでしょ?芯の周りは紙で支えられてて、ミシン目のとこを糸で引っ張ってぐるぐるっと紙をはがし、芯を出すやつ。『TAR』を見て、私、あの色鉛筆を思い出した。

 子供たちの声の中から――鳥の声の中から、知らない民族の知らない民謡が聴こえてくる。だけどその民謡は、ほんとは芯を包む紙にすぎず、子供の声や鳥の声が、真ん中なのかも。聞く限りどっちが中にあるのかわからない。変わるもん。だってさ、スタッフの「エンドロール」が、始まってしばらくすると挿入される。「中心」「外側」が、ばらばらにされ、可変なものになっている。中心はTARだけど、それはRATでもARTでもあるという、美しく醜い、入れ替わる渾然一体の謎鉛筆なのだ。

 リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は栄達の階段を上り詰めようとしていた。マーラーの全曲を、ドイツの交響楽団の常任指揮者として録音し終える寸前だ。レズビアンのターは、コンサートマスターシャロン(ニーナ・ホス)と娘ペトラ(ミラ・ボゴジェヴィッチ)と暮らす。彼女をだれもがうらやむ。しかし、ターは恋人たちを捨てたり、学生を厳しく指導したりしたことで恨みを買い、外からと内からの圧力で自壊していく。

 TAR—ターって、居たのかなー。ケータイのネットの海に深く深く潜っていく、幻想じゃないのか。眠るターの姿はぼやけ、ケータイの中でしか鮮明でない。糸を引っ張って巻紙を剥き終わると、そこにはやっぱりネットでしか出会えない人々がぎっしり詰めかけている。美しい芸術についてくるスキャンダルやトラブルをしり目に、ターは芸術に追いつこうとあがき、不安のあまり小さく黒い迷子のネズミのような姿をさらす。しかしその崇高な芸術は、一面、騒音にすぎない。ピアノを弾くケイト・ブランシェットが、ある瞬間ドアを激しくたたく「あの女」のように見える。チェロの響きが高いところは女の声のよう、低くなると男の声のようで、それに惹かれるターをよく表していると思った。最初のうち、情報量多すぎだよ。さっ、この鉛筆の芯はすっぽ抜けて空洞なのだろうか、芯にはだれを代入することもできる。たとえばこのART(映画)をみる私だとか。