葛河思潮社『冒した者』

上手バルコニー席から、舞台上にばらばらに打ちこかしてある椅子が8脚、見える。下手の袖に、舞台に背を向けた椅子が6脚ある。擦れて、すこしグレーがかった黒い床。羽目板の筋がきれいな模様をつくる。マーラーの『巨人』が流れている。巨人の重い足取りと、交互に現れる民族音楽の旋律。それから、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』。舞台に「私」(田中哲司)が登場する。続いて、その他の登場人物が袖の椅子に思い思いに座り、「私」に視線を送る。

この「私」は、『浮標』で妻に死なれた久我五郎のその後の姿を思わせる。「私」は妻を亡くし、虚脱感に襲われている。大きな屋敷の三階に間借りしている彼は、どうやら劇作家のようだ。屋敷には他に四世帯の人が住む。幸せでなくても、不幸ではない暮らし。そこへ、「私」に私淑する一人の青年、須永(松田龍平)が訪ねてくる。須永の登場は屋敷の人々に大きな衝撃を与え、波紋が広がる。隠されていた争いや感情のもつれが表面化し、芝居はたいへんな混乱を見せる。

地下室に、管理人の浮山(吉見一豊)が栽培するキノコがある。屋敷の相続人柳子(松雪泰子)はヌルヌルしているといって飛び退くのだが、この、暗くてじめじめしたところにしか生息しないキノコを見ていると、これはそれぞれが誰にも見せず、閉め切った胸の内で育てている思いのように感じられる。それはある者にとっては愛欲であり、虚無感であり、金への執着であり、罪悪感である。それはキノコ雲の連想を呼んで、原爆とつながっていく。

青年須永を医師舟木(長塚圭史)やその弟省三(尾上寛之)がさまざまに解釈するが、須永はあいまいなまま、肯定も否定もしない。須永に「私」が銃を手渡す。須永を通じて、「私」はこの世界に参加したように見えた。彼もまた「冒した者」となったのではないか。

松田龍平、登場すると劇場が色めきたったが、そんなこととは関係なく、セリフが今考えだされたように新鮮だった。