東京芸術劇場シアターウェスト serial number11 『神話、夜の果ての』

 拘置所精神科医(廣川三憲)の嫌う「心の闇」という言葉、宗教二世ミムラ(久保田響介)の弁護人クボタ(田中亨)の厭う「正義」、そしてミムラの母がすがる「神」。どれも汎用性が高い。大きくも使え、ちいさくもなる。この三つの言葉が指し示すのは、人間の社会そのものだ。ミムラは「神」のもとでも「正義」の下でも「心の闇」の中でも、つき転ばされもみくちゃにされる。心を破壊されて息をしているのがやっとだ。ミムラは孤児なのだ。愛着を嫌う宗教によって孤児となり、ただもう不在の母を求める。その心は決して満たされない。破局はすぐそこだ。

 短い、「小柄」な芝居である。天井が低い。重苦しさを表現するためだろうか、余裕がない。詩森ろば、いっぺん深呼吸して、この芝居にはミムラと同じく「孤児」宗教二世しずるのものすごく素晴らしい台詞がある。パンフレットに載せてあるだけで、そのページが光ってくるような、愛を穢れと呼ばされる少女の告白だ。このうつくしい台詞のためにも、芝居の身長をのばすべきだと思う。作中、「殺される男」が二重に見えてくるところに問題がある。「殺される男たち」が実はミムラを「殺し続けている」社会でもあるというのを、もうちょっと説明しないと。入れ子のようにはっきり見せてほしい。ミムラは宗教の世界で殺され続け、実社会でも圧殺されている。

 本日、ミムラ役の坂本慶介の代わりに、急遽アンダースタディの久保田響介が出演し、健闘していた。ただ、「待っても待っても」が、「舞っても舞っても」に聴こえる。しずるの川島鈴遥は、ミムラの顔にペタッと手を当ててひっぱっちゃダメ。短い台詞に感情を入れすぎ。台詞はもっと、淡々と喋ったほうがいい。チャームをいっぱいつけた女子高生のリュックサックみたいになっているよ。決めどころの大事な台詞で、明るさや、生命力を表現しないと。

 刑務官(杉木隆幸)の妻の話が、どこに照応するのかがわからなかった。おそらく、発狂に近い、発狂をおそれるってとこが大事では?

東京・新宿 THEATER MILANO-Za 『ふくすけ 2024 ー歌舞伎町黙示録ー』

 世界は薄く細分化された「層」で出来ている。たとえば死に神の持つような長柄の鎌で、切り払っても切り払っても、世界は姿を見せない。下の「層」が明らかになるだけだ。「層」は垂直に数限りなくあり、決して昇れはしないと思い知ったコオロギ(阿部サダヲ)は踊りの世界にいられない羽目になる。家元制の、上から下へピラミッドになった芸能の世界では、家元に難じられる「鑑別所上がりの」コオロギに目はないのだった。

 さて、長柄の草刈り鎌は容赦なく地中に食い込む。一打ちごとに穴が開き、ざっくりと深くなる。鎌を動かすのは業か、罪か、罰か。削られた穴は、本人の似姿だ。コオロギも、薬害で頭の大きな少年フクスケ(岸井ゆきの)も、北九州から失踪して歌舞伎町にいるマス(秋山菜津子)もホストに入れあげるフタバ(松本穂香)もマスを探すエスダヒデイチ(荒川良々)も、業を抱え、地獄の奈落を経巡るのだ。地獄は次第に深くなるが、作劇に緩みがないために、一瞬も気がそれない。登場人物が変わるシーンの切れ目も、等量の力で矢継ぎ早に語られるため、勢いがそがれることがない。松尾スズキの最高の作品といえる。

 問題なのは、業が、「筋」の中で明らかになってゆき、個々の役者が背負う分が薄いことだ。マスの秋山が内実をきっちり抱える声と佇まいで、看護師の内田慈もいいが、阿部サダヲは薄く、軽すぎる。黒木華は終幕関係性をひっくり返さなければならないのに、そこが鮮やかでない。結果コオロギが芯になってない。岸井の足をけり上げるステップの軽さと自在さに目を見張ったが、フクスケの何に対するとも言えない恨みが薄い。台詞もあやふや。

 全体としては、地獄への下降が一瞬で反転する荒川良々のシーンが、俗が聖に変わったとまでは言い切れないところが弱いよ。バタバタしていた。

 津軽三味線は、土着芸能であるのに、なぜ今日の音楽にかき消されるのだろうか。下から上へという別の流れを作ってしまうからなの?

彩の国さいたま芸術劇場 『ORLANDO  オーランド』

 オーランド(宮沢りえ)は、イギリスの大貴族の息子だ。彼は何百年もの年月を、胸に一冊の詩稿を抱いて旅をする。途中、男から女に変わり、遺産を失いかけたり子供を産んだりもした。しかし、そこには大きく触れられない。オーランドが一人の「詩人になろうとする者」として横切っていく世界が、さまざまに物語られる。オーランドは一人であって、実は一人でない。ある貴族の家系のたくさんの面差しの似たオーランドたちを表している(原作の挿絵をみてほしい)。V・ウルフの原作は、魔法の不思議な角笛みたいなのだ。そのことをバイオリンが示す。高音の(ここが違和感)声でバイオリンは鳴る。一直線に、時間が先へ先へと進むように。けれども。なぜ女になったオーランドの結婚相手が谷田歩(ボンスロップ)なのだろうか?谷田は全編通していつもより優しい声でしゃべり、男らしさを極力抑えている。しかし、原作から見るとウェンツ瑛士の方がとても似つかわしい。これは、この芝居のプロジェクトのではなく、芝居のオーランドの選択ミスなのかな。男っぽい男、を選んだことで、「現代」のオーランドは崩れ落ちた世界の中にいるのか。または、少年オーランドが「異族の首」にちゃんばらを仕掛けたことにすべての種子は胚胎していたのか。この改変の意味が分からない。

 オーランドの心を激しくとらえたサーシャが出てこない、ということは、愛の表現は宮沢りえが一人でふくらまさなければならない。ふくらんでないよ。V・ウルフは、愛には二つ顔があるという。白と黒、滑らかなのと毛むくじゃら、だったか。ウェンツの演じるハリエットに対して、オーランドは欲情し、その欲情を否定する。そのことは芝居に現れないとダメ。この二つ、『オーランドー』では大事な箇所なのに、するっといっててよくない。ハリー大公(ウェンツ瑛士)の愛が本物で、台詞に真情がある。しかし泣きすぎ。河内大和のエリザベス女王の威があって奇妙という造形が素晴らしく、そこへ手洗いの鉢を差し出す少年オーランドもキマっていた。ウェンツが時間の線を歩いてゆくシーン、あれ、要る?オーランドの世界を現代の苦悩につなげようとする終幕はちょっと強引では。

下北沢 本多劇場 ナイロン100℃ 49th SESSION 『江戸時代の思い出』

人数分に汁物を取り分けて、いつも貝杓子一杯分だけ鍋に残してしまう癖が私にはあって、これはDNAに刻まれた先祖の飢餓の記憶だなと思う。40年ぶりに読む大作小説の登場人物が、知り合いのように懐かしい。ていうか知り合いなのだ。生きれば生きるほど、記憶——思い出は拡張し、細密化していく。ひとりの人間の脳は、一冊の本のようにあらゆることを思い出として貯めこんでいる。

 舞台上で武士之介(三宅弘城)が、殿の参勤交代の行列にはぐれた人良(ひとよし=大倉孝二)に「話を聞いてくれまいか」と話しかける。武士之介が話しはじめるのは、未来や過去が、らせんのような、二重のような込み入った姿になっている井戸の中と外の思い出だ。

 江戸時代には飢饉が襲来しており、茶屋の3人姉妹(犬山イヌコ松永玲子奥菜恵)は、互いを食べることばかり考えている。疫病もはやり、おえき(坂井真紀)という娘が皆に病をうつす。おしり探偵ならぬ顔が臀部の侍(伊与勢我無)があたりに潜んでいるが、このことですぐに、土蔵や締め切った座敷にひっそり閉じ込められていた江戸期の病気の子供を連想する。可笑しい会話が切れ目なく続き、暴力や残酷をナンセンスに見せる。

 脳がみのすけ演じる教師の中に入ると、すごく台詞が明晰でわかりやすくなる。三宅弘城、すこし口跡わるいのでは。

 いちばんのアキレス腱は、キューセイシュ(みのすけ)だろう。長い芝居で皆疲れているところへ出すならもっとちゃんとやらないと。これ、別役の『やってきたゴドー』みたいだけど、別役に比べてやすい。キューセイシュの話すことも、やることも、「ちょっと出した概念」みたいである。いましも私がドストエフスキーを読んでるからかもしれないが、がっつりいってほしい。神とは?KERAも60代、こわいくらい読み応えのある(また最初から読める)一冊になれ。冒頭の江戸時代を遠くから見つめる歌、非常に楽しかった。

京都四條南座 坂東玉三郎特別公演 『壇浦兜軍記  阿古屋』

「弾きすぎないでね」

 『阿古屋』を玉三郎に引き継ぐとき、六世歌右衛門がこう言ったというのだが、それで歌右衛門がすごいひとだったとわかる。一方引き継いだ玉三郎は、『阿古屋』の二つのサワリに、平家の盛衰が見える、と、口上でゆっくり教えてくれ、こちらもなんだかすごい。

 『壇浦兜軍記』の阿古屋のくだりを、片岡千次郎が朗々と説明する。一回ちょっと詰まったが、それも何かの間違いって感じだった。阿古屋の中で、片岡千次郎は、義太夫に合わせて人形ぶりで動く。台詞はない。この動作の一つ一つ、大きく首を巡らせ、腕が両脇で大仰に動き、お人形——文楽のようである。

 この芝居ができた当座、きっと人形浄瑠璃がたいへん人気だったのだろう。この芝居には、人形のような動きと、人形には絶対できないこと――三種の楽器を弾きこなす――が涼しい顔で同居している。片岡千次郎が後見とともに弾むように動くと、客席から小さな笑いがさざめくように起こり、その人形らしさに感心した。

 玉三郎の阿古屋は、美々しい孔雀のまないた帯に、伊達兵庫の髪かたちで、絢爛豪華に登場する。って、私は今日そんなこと書きたいわけじゃない。

 重忠(中村吉之丞)に促されて、琴を弾き始める阿古屋、その琴の上にかざした右手が、琴糸の上を軽く渡ったとき、音は「泣いている」。ここで私は大変驚いた。同時に歌右衛門の弾きすぎないでということが腑に落ちる。琴、三味線、胡弓が凄くうまく弾けたって俳優の手見せ、かくし芸にすぎない。役の上での音楽でなかったら意味ないのだ。琴を弾くまで、阿古屋が泣いていたということが如実に表れていて素晴らしい。この阿古屋は景清の行方を本当に知らない阿古屋であることも、この音の中にある。

 玉三郎はどの楽器も苦もなく弾くが、本当に難しいのは義太夫の三味線と合わせることのようだった。三味線の中棹のあたりで玉三郎の指は拍子をとるが、うまく義太夫の三味線と合わず節がフラットになっていた。玉三郎の鳴らした音の隙間にほかの三味線が落ち込んでいるのだ。合わないとダメです。

 今日の胡弓の弓の馬の毛は、撚れてなくてなんだかふさふさしていた。玉三郎があんまり何気なく弾くから気にはならない。「こちらをみてくれ」って感じではない。一心に弾く、後半になればなるほど阿古屋のまごころ、偽りや飾りのない、まっすぐな心持が見て取れる。

 重忠が疑い晴れたというと、うちかけをこちらに見せた阿古屋がすいっとのけぞる、そのしぐさの一瞬で舞台の景色が変わり、青空が見えた気がした。

アップリンク吉祥寺 『ハロルド・フライのまさかの旅立ち』

 平日の午後、小さい映画館だが結構お客が入っており、後半になるにつれ観客のすすり上げる声が大きく響く。

 いい映画(はなし)なのだ。

 ある日、ハロルド(ジム・ブロードベント)は、一通の手紙を受け取る。昔の同僚クイーニー(リンダ・バセット)からの、余命いくばくもないというさよならの手紙だった。ポストへ返事を出しに行く道すがら、店の娘におばさんのがんをまごころでいやしたと聞いたハロルドは、不意に、自分もクイーニーの病気を、歩くことで勇気づけようと思い立ち、そのままふらりと800キロを踏破し始める。

 カーテンの隙間から往来を眺めていた男が、皮の古ぼけたデッキシューズの足で世界を感じる。高速で車が行きかう。激しく雨が降る。真水を手で受けて飲む。一方家では、うまくいってない妻モーリーン(ペネロープ・ウィルトン)が心配していた。んーと、「善」と染め抜かれた大きな風呂敷で、この話は包み込める。人生の肯定。妻との和解。いい話。それだけだったら、観る価値はない。

 一点、どこかに一つ「虚無」の穴が開いていて、息子(アール・ケイヴ)を連れ去ったり、ハロルドの修行のような歩きに付き合っていた若者ウィルフ(ダニエル・フログマン)がするっと姿を消したりする。ここがなー。後半、ハロルドがモーリーンと眺める海に、くるくると筒を巻き込むような茶色の波が現れる。どこから来るのかわからない、「虚無」の使者だ。ウィルフの消え方が、ほんとにPCから「消去」「削除」したみたいで、もう一つ深みが足りない。穴の向こうの虚無につながらず、脚本が巧く行っていない。波にさらわれたようじゃないとなー。

 再会したクイーニーが故意か偶然か何となく顔を隠すところ(恋愛感情をそれとなく示唆している)、モーリーンの最初のシーンの夫を見守る幾度かのまなざし、この二つがほんとに素晴らしい。サム・リーの歌はすごくいいが、すごくよすぎて映画(特に前半)が負けそうだった。

世田谷美術館 『民藝 MINGEI 美は暮らしのなかにある 』

第二次大戦がはじまるちょっと前に死んでしまった若い詩人は、生前こんなことを言っていた。僕の理想の家には長火鉢があって、それを前に着物を着たまだ見ぬ僕の奥さんが座っている。しかし、スイッチを押すと部屋は一変し、椅子に洋装で、さっきの奥さんが腰かけているのです、みたいなこと。前近代と近代、伝統とモダンの間で揺れる大正・昭和期の日本人は、どっちもいいなあと思っていた。和風と洋風の緊張の中から、新しい価値が生まれてくる。古いものをモダンの目で見直す、『民藝』だ。古いものは埋もれていた。ほめられもせず、くさされもしない。ただ黙って物の役に立って、古びて捨てられようとしていた。柳宗悦はそこに美しさを見る。ここが革新的。新しい美の発明じゃなかろうか。

 今回の民藝展に入ると、まず柳が1941年に提案したという居室の展示がある。見たとこ、駒場の民芸館の向かいの柳邸にそっくりだ。厚さ4、5センチの松製の大テーブルは軽い茶色で、ちっとも権威的でない。濱田庄司の藍鉄絵紅茶器が、赤と黒の漆の大胆な盆にのせてある。土瓶が蓋を平たく設えられ、すこしデザインだけど、それで紅茶を淹れるっていうのが意外で、そのせいで大きくふっくらした姿も紅茶につきすぎず、明るい感じがする。大テーブルにはこのほか、大ぶりで重そうなレンゲや蝋燭立てや湯飲みが、沢山載っているが、いやな感じはしない。せまくない。(1941年の展示には、花が飾ってありますぜ。)ラダーバックチェアも、編んだ座面が畳と仲間な感じがする。美しい。この展示では、きもの、食器、台所用品、各地の民藝、手つかずの地方としての沖縄の物などが陳列されている。

 中で私が一番美しいと思ったのは、「蝶小花紅型着物」だ。明るい、深い空色に、赤、黄色、臙脂の線描きが見える。パッと目を捉える鮮やかさで、うっとりする。ところが、近寄ってみると、黄色に見えたのは実は臙脂の線をにじませた白に近い色、色とも言えない色で、非常に地味な、地道で手堅いステンシルであることがわかってくる。5歩離れた時と、1歩まで近寄ったときの、この差。

 それは鹿沼箒という箒にも感じられて、5歩離れてみると箒の穂先の並びは、まるで広重の雨のように美しく、束ねて盛り上がった胴の始末も丹念で、箒の穂をそろえるための赤と黒の縛りの編み方も隙がない。しかし、1歩に近寄るとそうはいかない。鹿沼箒の各部すみずみまで力があふれ、眺めている私にこう言う。

「ソウジヲセヨ」

ふーん。こういうことか。台所について語る(台所の美しさについて語る)柳の言葉が、家事の苦手な私の目に入り込む。

 「行き届く主婦でもゐれば台所はそれらのものゝ見事な陳列棚である」

 柳の妻は自立して働き、柳の仕事、柳の収集をたすけた。とすればメインテナンスはだれが?女中さんだね。お手伝いさんがやっていたに違いない。民藝運動は、台所から5歩離れた人たちがやっていたのだ。台所をはいずって、必死で鍋底を洗うものには見えない美。

 一時期手あかがついたものになって消えていた民藝が息を吹き返したのは、食洗機の普及と関係ないかなあー。民藝の食器は丈夫だが、重い。それに、沖縄の仏壇は清らかで美しいが、それを飾る柳は、沖縄から10歩以上離れている感じがする。

 二階には現代の民藝と現代の蒐集家の居室がある。でも、展示が攻めてない。5歩と1歩がわからない。結局、民藝って、モダンの眼ってことで終わりだろうか。柳宗理が、工業製品(ジープだったか)を『民藝』誌上に載せ、すんごい怒られていたのを思い出すのである。