世田谷パブリックシアター りゅーとぴあ×世田谷パブリックシアター 『住所まちがい』

 んー。これ、何でやろうと思った?この戯曲、三位一体の神とかマリア信仰をダイレクトに扱っててむずかしいじゃない?しかも1990年初演。古い。

 三人の男が、めいめい違った住所のメモをもとに、同じ部屋にたどり着く。一人は会社の社長(仲村トオル)で、女と会うために来た。もう一人は元警官(渡辺いっけい)、ここが取引先だと信じている。最後のひとりの大学教授(田中哲司)は原稿のゲラを受け取りに出版社へ行くつもりだった。

 空気の汚染のために突然の警報が町中に鳴り響き、三人はかみ合わないままこの七階の部屋に閉じ込められる。生、死、神について冗談紛れに会話をするうち、彼らは自分が生きているのか死んでしまったのか、わからなくなるのだった。

 この芝居、もう圧倒的にスケッチが足りない。仲村トオルは女に逢ううきうきがないし、渡辺いっけいはテーブルクロスを一瞬で引くような、下地の警官がパッと露わになってくるところがない。田中哲司、もっとライプニッツとかウィトゲンシュタインとかすらすらっと言えないの。三人とも、このくらいの年まわりの俳優になったら、立ってるだけで、それまでのストーリーが身体にでないとだめ。あと、三人が実存的不安に駆られるまでの滑走路(不安のレンジ)が、粗い。しかし、後半は彼らの底力で面白くなる。朝海ひかる、全てがミステリアスというより中途半端。訛りも中途半端、美しい女性のハイヒールも中途半端。ミステリアスは一か所でいい。ヒールの足を前半分、ぺたっと地面につけないで。足の甲を押し出して、足の甲が靴の一部になり、一番美しく見えるように(きのうみた…)。

 部屋は十字をたくさん含んだ白一色、黒――死――を下塗りにこっそり隠している。

新国立劇場 中劇場 2022/2023シーズン 演劇 海外招聘公演 『ガラスの動物園』

 耐え難い牢獄の臭気を感じる。壁に描かれたたくさんの顔が、ここが実は人を閉じ込める檻で、いわばほんとうの「動物園」なのだと話しかけてくる。室内を表わす装置は、外(上)へ出る階段、四角い小さな窓、四角くひっこんだ台所が設えられているだけで、まるで手のひらサイズの家電(アイフォンとか)が収まってる箱みたいだ。現代ぽいね。

 トム(アントワーヌ・レナール)がこのアパートの暮らしにキレそうで、ローラ(ジュスティーヌ・パシュレ)がガラスの動物たちを磨いてばかりいるのがなぜなのか、イヴォ・ヴァン・ホーヴェは観客に、教えすぎるほど教える。教えすぎだよー。どうかと思う。ガラスの動物は涙を流さない。汗をかかない。ハイセツしない。透明で傷つきやすく、輝いている。幻燈、幻影のようだ。

 この苦しい人間の「生活」は、一人の客(ジム=シリル・ゲイユ)を迎えるとがらりと様相を変える。照明はここが毛皮で覆われた部屋だということをやっと明らかにする。(ここ、すごかったよ…)皆寄ってたかって「動物園」の表側、人懐こく、生臭くもふんわり暖かい別の顔を見せる。イザベル・ユペール(母アマンダ)は、娘のローラが学校に通っていなかったことを知った絶望と怒りを爆発させるけど、一音も外しません。トリルをつけすぎることもなく、節回しは正確、伸ばしも縮めもしないのにとても自由。悲しみは深く、怒りは激しいが、この人いつも何か「気を取り直している」のだった。そこが愛せるよね。トムはマジックがたどたどしく(二回目だって!)、もっと芝居を「映画に行く」暗さに特化した方がいいよ。アマンダ、ジムに恋人がいるのを知ってする瞬き多すぎ。瞬きのうちにこの芝居は現れ、消える。ローラが蝋燭を吹き消しても、追憶の目の奥の暗がりに、きらきらするガラスの動物たちは残る訳だけど。

浅草九劇 札幌座・道産子男闘呼倶楽部 『五月、忘れられた庭の片隅に花が咲く』東京公演

 鄭義信の濃い芝居。夕張の炭鉱、事故、そして静かに凋落してゆく街を、崩壊した小さな家族の中に映し出す。どこも手堅く、しっかりできていて、綻んだ関係をまるでギリシャ悲劇のように語る。これ鄭義信の得意技だよねー。いつも通り。でも、ものすっごく集中してしまいました。完全に線が切れて、トランス状態のようにも見える見捨てられた青年ハルヒコ(犬飼淳治)が、父アキヒコの兄タツ斎藤歩)と取っ組み合うと、私はもう目でそれとなく舞台上の凶器の有無をはらはら確認しちゃったのであった。みすぼらしい炭鉱住宅を、家族は出て行ったり、戻ってきたりする。前提となるのは、ハルヒコの母アケミ(智順)と、夫の兄タツとの断ち切れない、愛とも言い切れない繋がりなのだが、ここがねぇ。齋藤歩がタツを老人に作っているので、火花のようなスウィートさがゼロなのだ。そこがゼロだと、アケミの「やり直したい…」という悲しいつぶやきが宙に浮いちゃうよ。ただ逃げ出したい男に見える。それから、炭鉱事故を追想するのは、この人何回目なの?わからなかった。(目線決めて。)そんな男をひっつかまえてこっちを向かせかき口説くハルヒコは偉い。けどさ、犬飼淳治は喉をマックス使っているので、声が「ぎりぎり」。も少し抑制利かせないと、家庭の惨劇を至近距離から観るのもたいへんである。智順、観客が「わけを知った」後半よくなるが、冒頭の台詞うるさすぎる。ハルヒコの友人マッチャン(津村知与支)は達者な造形だが、ここ、鄭義信の危険信号、こんな記号的な男の人、もう時代に追い抜かれてる。笑いは『てなもんや三文オペラ』ほど拙くなかったように思う。長兄クニ(黒沼弘己)、もっと堂々としてていいよ。結局一番いいと思ったのは、炭鉱事故の犠牲者を「死んだ」ことにする判を取りに来たハヤシ(泉陽二)の厳しく抑制された芝居でした。

 (配役表がないので、名前がかたかなになっています。)

彩の国さいたま芸術劇場 大ホール 彩の国シェイクスピア・シリーズ『へンリー八世』

 悩みって集中力だよね。何をしていても、「それにつけても…」と悩みに戻る力、そしてわざわざ悩みの中へとまた入って行く力、集中力があるから悩みが生まれる。

 阿部寛の王さま(ヘンリー八世)は、集中力が今一つ。冒頭の暗がりから現れる王の叫びは、赤ん坊の泣き声と完全に同期していなければならないし、「世継ぎがなくば」と言われたら殺意を感じるだろうし、キャサリン王妃(宮本裕子)を引き出して、無実の彼女を責める場面では、窮地の独裁者くらい暗く、身動きもしないんじゃないかなあ。阿部寛、考えるのだ。ハンサムで189センチの恵まれた長身、でもたとえば肘先と手首の間が長すぎてニュアンスが出ない。そこはもう筋トレの範疇ではありません。所作に優美さ、繊細さが必要。

 皆思いっきり芝居をやってて、声が嗄れ気味で、なんかそろわない。もう少し台詞の意味を伝えてー。トマス・クランマー(金子大地)、儲け役なのに!声がいい人っぽくない、嗄らさない。枢機卿ウルジー吉田鋼太郎)や、バッキンガム公爵(谷田歩)の場面はきりっとしてるのに、キャサリン妃の弁明の場はどこが山かわからず、役者に負担がかかっている。演出不足。「お子がない」ということを一言も口に出さずに計らったのはものすごく素晴らしいけど、広い舞台なのにごちゃごちゃしており、淫靡すぎやん(エリザベス一世目線)。そ、この芝居観ているうちに自分がエリザベス一世のように感じるの。生まれたのが男かどうか王は強く訊かないし、エリザベスの命名式ではみんな嬉しそうで、大団円とも見えるからだ。けど一人の観客に戻ってすべてを見渡すと、「もらったから」と言って小旗を打ち振る人々は恐怖で、最初のステンドグラスを通した明かりは、血まみれだったような気がするのだ。

KAAT神奈川芸術劇場 ミュージカル『夜の女たち』

 舞台上が、フィルムのコマを白味と黒味につなげた碁盤縞だ。青みを帯びた舞台が、去っていった夥しい死者を思わせる。そして、コマの一つ一つが、戦場や空襲や飢え死にの惨劇を映しているように見えてきた。日本(語)の土壌から生まれた音(声)が、台詞になり、歌になってゆく。三味線の音さながらの細く長くつながる節――チューン、その上に芝居が、調子正しく繊細に乗っかっている。

 溝口健二の映画を基にした芝居だけど未見、ごめんなさい。戦後、追い詰められて娼婦にならざるを得ない女たちの群像劇である。始まってすぐの古着屋の富田(北村岳子)とヒロイン房子(江口のりこ)のやりとりからして、もうすでにセリフがいい感じに歌われているのに感心する。すごいじゃないか。日本古来の三味線みたいなのに、ミュージカルで、ダサくない。けど、一番クライマックスの、房子と義妹久美子(伊原六花)のとこの歌がひじょうに惜しい。めっちゃ惜しい。ホーンとか、かっこわるい。チューンの糸の上から、落っこちている。真正面すぎるんじゃない?

 素舞台なので真ん中の二重に進み出る足取りがたいへん大事。プラカードの人々、おなか減ってるようにリアルにしてほしい。あやしい商売の栗山(大東駿介)は足が悪い。でも場面によって足つきが変わる。どういうこと?登場人物が実は、全員、弱いほうの足をもっているというメタファーかなあ。そうでないなら、最初出た時の踊るような陽気な足取りがいいよ。意外で、悲しい感じするもん。夏子の前田敦子、抱いている赤ん坊についてもっと感じる。北村有起哉、台詞どうした。発語がのろいけど。あと、パンフレットの写真いいよね、ざらりとした紙質と、モノクロの調子があっていて、「どうぞみておくれ」みたいなところがない。

本多劇場 イキウメ『天の敵』

 「永遠と」っていう、今日びの言い回しが一か所だけ入ってて、すわりがわるい。これくらいのさりげなさで、それぞれの時代の言葉がかすかにあってもよかったねー。『天の敵』は一世紀にわたる一人の男の物語だけど、時代色が薄いからさ。それともこの気持ち悪さが、芝居を解くカギ?

 キッチンアトリエで実際に料理をする冒頭シーンから、菜食料理家の橋本和夫(浜田信也)へのインタビューに臨む寺泊満(安井順平)の現実に、過去の出来事が舞台上で混ざりこむ、事の次第、そして終幕まで、皆とても芝居がうまく、話は面白く、退屈のしようがない。中でも医師糸魚川典明(市川しんぺー)が、不老不死を肯んじないところ、小さな台詞がその奥行まで(彼の信条、生活、おもい)、立体的にぴかっと光ってその影が見える。

 タベルということ、食物連鎖、そこから抜け出せない人間、それが大きくフィーチャーされて物語の背骨を成している。だけど、その強度はちょっと低目かな。ベジタリアンさえ否定してしまう昔の有名小説ほどでなく、ヴァンパイア――性愛――というもう一つの側面にがっとストーリーが引っ張って行かれるシーンがあって、ちょっと物足りないかもね。

 この話、一人の自己中心的な男の物語のような気もした。「終わりにする」なんて、出来るはずもない。とっても勝手。人間が鎖につながれているとしたら、欲望の鎖もまた無限につながっており、「不老不死になりたい」望みは、決してなくならないから。

 浜田信也、神経質で敏感な大きな鳥のよう、安井順平はなぜか登場から顔が青く見え、儚い感じがする。妻(優子=豊田エリー)は彼を力づけるが、その先に何があるのか、見えるような、見えないような。

Bunkamuraシアターコクーン 『血の婚礼』

 木村達成、「かっこいい」のポテンシャルが高い。私がファンなら「全通」だ。でも、一方で、「かっこいい」を大事にしてる役者のことは(どうだかなあ)と思ってもいる。それでもこの『血の婚礼』の木村、ただ一人名前のあるレオナルドはつきぬけてかっこいい。それは木村がこれまでに培った技術だろう。この技術で、殺し合いで相手のナイフを押さえつつ絶望の叫びをあげるレオナルドが生きてくる。かっこいいだけではできないからだ。スペインの閉鎖的な村で、花婿(須賀健太)が花嫁(早見あかり)を娶ることになった。花嫁はかつて想った男(レオナルド=木村達成)のことが忘れられない。男もまた、結婚して昔を忘れようとしている。

 3幕の赤い土の丘を越えてくる素晴らしい「道行」に向けて、全てが緊張しているというのに、衣装がかなり微妙。これ、いわゆる「観客を置き去りにしない」演出方針を表わしてるの?鮮やかで、ちょっと垢抜けない色彩の服を、拘束衣のような黒革のベルトが縦横に包む。神の十字、因習をベルトが示しているとして、着こなせてない(特に、冒頭の須賀健太、顕著)。「月」も、俳優が踏ん張っているから笑わないけども、もひとつだ。この公演はこの先、「着こなす」「衣裳に負けない」ことがとても重要だよね。前半、レオナルドは汗まみれの馬のようでなければならない。静かな、死んだような家を騒がせる、激しい息遣いの馬、娘の心を目覚めさせ、恐れさせ、目を離せなくさせる存在。花嫁とレオナルドの間に、視線を交わさなくても(交わさないの希望)ぴんと張った糸がついてないとだめ。もっと緊張がないとみて楽しくない。1、2幕が課題。早見あかり、発声よくなったけど、激しい所もっと激しく。母(安蘭けい)には別れてゆくものを見送る「戸口」が与えられ、花嫁には外を見る「窓」しかなかった。今、花嫁は戸口から出てゆく。それは追放か解放か?