紀伊國屋ホール ラッパ屋 第46回公演 『コメンテーターズ』

 ワイドショーのプロデューサー真行寺(岩橋道子)はお買い物好きという設定で、両手にたくさんのショッピングバッグを持って登場する。ショッピングバッグの大きさは均等で、「お買い物好きのリアリティ」ははっきりいってない。しかし、その嵩張るバッグを持った姿は、あだ名の通りマンガのような「クジャク」に見える。この話はリアリティを追及しない。いろいろマンガっぽい。仕事のない老年の男(横沢広志=おかやまはじめ)が、ためしにユーチューバーになって、テレビ番組のコメンテーターに抜擢されるのだ。パートで夫を支えている妻夏江(弘中麻紀)、子供部屋にいまだ棲む外で働かない「子供部屋おじさん」の息子悠太(瓜生和成)、友人の饅頭屋のおやじ小野(熊川隆一)、テレビのコメンテーターたちや裏方が按配よく配置され、横沢(よこちゃん)の高揚、逡巡、挫折、立ち直りが語られる。そのテーマはオリンピック、たった今の話題だ。時も七月。現実とすれすれの、皆が胸に思うことが芝居に出てくる。でも、中にこわい一言が入ってる。終盤に、これまでのいきさつを観客に向かって、「いろいろおかしかった(変だったの意)でしょ?」というのだ。ここさ、確かに唐突な大団円だったけど、物語を明るい色調でマンガっぽく仕立ててきた作者が、そのマンガをぴりっと破って見せたみたいで衝撃でした。「物語がない」よりかびっくり。「なにがなんでも希望を提出」(鈴木聡、当日パンフレットより)って、そんなに重い課題なの。作者のこころ――ムード――と乖離する方がよくないと思うけど。役者はみな達者だが、もう少しリアリティ寄りにした方がよかないか。ていうかもっと芝居をさせて。弘中の登場の足音が大きすぎ、そして瓜生の手足が余りにも随意に滑らかに動き、この人は断じて「子供部屋おじさん」ではないと思う。あんなに自在に体の動く人が、ぎこちない人間関係とか築かない。

Bunkamuraシアターコクーン COCOON PRODUCTION 2021『物語りなき、この世界。』

 あのー。「人は無意味に耐えることはできない」っていう、古い推理小説を読んでから、あっそうなのねと物語を疑うことをしてきませんでした。それと世の中の物語を求める人、物語に乾いている人って、不幸せな人が多いと思う。いいとか悪いとかではなく、今自分が感じている不幸せの、「外の」「他の」枠組みを切実に探しているのだ。

 歌舞伎町の地べたを歩き回る若い人たちの、そのすこし上の中空を、物語に関する言説が漂っている。ここがなあ。台詞の言い方をめちゃくちゃ難しくしているのだった。まず、上手と下手、反対方向から歩いてくる菅原裕一(岡田将生)と今井伸二(峯田和伸)の足取りが、繊細でない。売れない役者と売れないミュージシャンが巷を歩くとき、その時、地面は敵?味方?そこからして準備が十分とは言えない。作家が「決めない」せいで、地の台詞(さりげない、日常の)が緊密でなく、漂う「物語の台詞」が浮いてこない。岡田、峯田、やり取りもっときっちりやろう。トラブルのもとの中年男(星田英利)の最初の足取りが二枚目で、(おや)と思わせる。「もう一回やり直してくれねえかな」血を吐くようで素晴らしい。だが「かきくけこ」が関西発音でひっこんでいる。俳優ならば別の「かきくけこ」もできないとね。寺島しのぶ、「3Pしよ!」はもっと陽気な悪魔でやってほしい。星田英利の心の中を「物語る」シーンは、この芝居の白眉であるはずなのに、迷いがある。皆物語への批評性を持たされているからだ。あまり成功でないと思う。もうここ、嗚咽しながらやってほしい。語り終えたらフラフラになるくらいに。宮崎吐夢結婚の経緯、珍しく台詞言えてない。やっぱ批評性がねー。

 「出来事」と「理屈」でいっぱいの菅原と今井、「物語」がないとは若いということだ。若いねって思う幕切れを目指せ。

新国立劇場小劇場 新国立劇場 演劇 2020/2021 『反応工程』

 「あっホールデン・コールフィールド」正枝(天野はな)が田宮(久保田響介)に「逃げずに戦争へ行け」と破れた赤紙を握らせるところで、場面は凍り、孤独の中に田宮は残される。サリーは来ない。小学校しか出ていない正枝と大学へ進むであろう優秀な田宮、ここにはまだ「釣り合う縁」という言葉はなく、おそらく田宮はただ純粋に少年の心で、清楚な正枝を愛している。工場に動員された田宮たちは、究極に残酷な環境にいる。教師(神農直隆)は欺瞞に満ち、工場の人たちや家族や恋人は、世間体を気にしたり、国家について「考える」こと、「個人であること」を省いているせいで、彼らに出征や死を求める。世界は「負ける」と知っているのに、若い動員された者たちを死へと追詰めるのだ。ホールデンは自分を取り巻く嘘を暴き、それを許さず、やさしいこころを残したまま何とかやって行こうとするが、最終的には病院に行かされ、世界から放逐される。田宮の場合は世界の方が180°変わり、価値は上下を返したように変化した。追及しても一切が虚しく、「少年の純粋」のよすがであった絆も失われる。ホールデンの物語が戦勝国のついている嘘につきあえないというストーリーだったのに対し、田宮は敗戦国の少年の、傷の深さ、大きさを表す。…っていう話に見えました。田宮の久保田は健闘し、(この人はまだ少年なのだ)という芝居の奥が、あの泣き声で明らかになるまで集中を切らさない。しかし、あと一息、声のレンジが狭い。巾があると少年時代とその薄くなっていくグラデーションがよく出る。声のバリエーションがないように、表情も限定されている。もっと自分を解放する。林(清水優)、逃亡者の名を出すとこ丁寧に。工場の年配の人たちはみな手練れ、そこに交じって見習い工の矢部(八頭司悠友)頑張った。

帝国劇場 『レ・ミゼラブル』

 ものすごい音量で荘重な前奏が聴こえるとスクリーンに波しぶきが見え、ヴィクトル・ユーゴーの本の世界が観音開きになって、「レミゼラブル」がなだれ込んでくる。

 ガレー船漕ぎ、いちいち芝居が大仰だよと言いもあえず、全てのシーンが並列に矢継ぎ早に繰り広げられる。待ってー。台詞は全部譜になっていて、譜の通りに歌うのと、同時に感情を籠めるのがたいへん、はっきり言って、皆歌ってはいない、「感情をこめて呟いている」。特に前半ね。特に佐藤隆紀ね。歌って。シーンがあんまりスピーディなので、俳優は感情を掘り下げるのが難しい。しかし、ここはひとつ、斧で柱をはつるように、ひとつひとつリアルな傷跡をつけてほしい。あと司教(増原英也)が私の思ってたより厳しい人に作られていた。ジャン・バルジャン、残りの人生で証しをたてよ、って風だ。佐藤の「死んで生まれ変わるのだ」の「だ」、ここ嗄れてて不安定だった。がっかりだよ。

 ファンテーヌ(和音美桜)が排斥されていく心の動線がわからない。工場支配人(石飛幸治)は初めファンテーヌを娘だと思ってちょっかいを出していたのに、子供がいる女と知って悪意がふきでるはず。これは周りの女たちも同じ。フラットにやったらつまらないよ。こんだけ目まぐるしいんだし。ジャべール(川口竜也)は安定していて、アンジョルラス(小野田龍之介)は語らず、歌い上げるところが多いけど、とてもよかった。指導者って感じ。テナルディエ(駒田一)が弾まず、シーンが停滞している。エポニーヌ(唯月ふうか)「要らない自分」に悲しみと痛み――リアリティを持て、一幕終わりの盛り上がる所やマリウス(内藤大希)の「カフェ・ソング」、佐藤の「彼を帰して」、素晴らしかった。ぼやけていた世界に隅々までピントが合って、影と光が鋭く、繊細に見えた。

シアタートラム 劇団チョコレートケーキ 第34回公演 『一九一一年』

 男は泣かぬがよし とされた明治末期にあって、大逆事件の予審判事を務めた田原巧(西尾友樹)の目の裏側、身体の内側に、さんさんと涙が流れ落ちている。後悔、無念、慙愧、それらすべての思いを込めて、「内側に涙が流れる」。その涙の音を観客は聴き、気配を知る。この西尾の身体の在り方、演技が、きちんと芝居の基礎となり、無法な大逆事件を照射する。

 「お勉強ができたから」という理由から、或いは刻苦精励して、司法官試験に通った人々、「上」を望み、「上司」を顧慮し、家族を養う人々を、管野須賀子(堀奈津美)は、「がんじがらめ」と一言で語る。死刑になると思い定めた管野には時間はないが、その「末期の眼」は澄み渡っていて、威圧的に扱われても決して屈さず、凛としている。田原判事の優しさをすぐ感知するところに世間知も感じられ、愛人幸徳秋水の妻への手紙を突きつけられても平静を保つ(眉宇に苦しみが現れる)瞬間など、すばらしー。堀奈津美、ほんとうによい演技だ。そしてよい役だ。これ、荒畑寒村(前夫、6歳下の革命家)の事も出てきたら、もっと複雑で面白かったのに、この芝居は、「そこじゃない」からなー。

 「主義者」を一網打尽に押し包んで始末しようとする人々「権力」と、「自由というもの、それを本当に人間は手にすることができるのか」っていう話だもんね。ちょっと教科書的。やっぱり荒畑寒村出て来てもよかったかも。

山縣有朋の谷仲恵輔好演している。この権力の暗い威圧があって、終幕の編笠の人々の行動の輝きが生まれるという皮肉、悲惨。新日本婦人同盟の人(堀奈津美、二役)さ、もうちょっと個人的にできない?教科書ぽいよ。

シアターオーブ 『ジーザス・クライスト・スーパースター・イン・コンサート』2021

 んー。今日のラミン・カリムルーちょっと上ずってない?しかも、それが役柄のユダの動揺してるのとなぜか同調していて、動揺だか上ずってんのかどっちかわからない仕上がり。冒頭のギターソロは重さを掛けずさっと進め、照明はテレビだったら怒られるくらい客席に向けて明滅する。アンサンブルは「体つきが似てるから揃っちゃうねー」という中に黒人の人(ジャラン・ミューズ)がひとり入っていていた。悪くない、何故だろう。

 今度のジーザスは東洋系の人で(マイケル・K・リー)、端正でノーブルだ。胸が自然に誇らかに反り、歌はうまく、メタルのような高音が素晴らしい。なのに寺院の商業化を怒る所で失敗し、「You only have to die」というフレーズを一オクターブ下げていた。

 それから美しいマリア(セリンダ・シューンマッカー)は躰に感情が行ってなく、突然歌だけが上手。ジーザスが「じぶんでなおせ!」と叫んだあと、マリアの歌とのつながりに段差があった。

 こうなると、ピラト(ロベール・マリアン)の表現力が目立ち、シモン(柿澤勇人)がうまく歌いおおせたこと、ヘロデ(藤岡正明)、カヤパ(宮原浩暢)が大過なかったのをよかったねと思う。歌がうまいってなんだろう。考えてしまった。

 この演出の中ではユダがほんとうにちっともジーザスを理解できないこと――わからないということの中にある怖れと孤独――、ジーザスが自分をほめたたえる民衆の中で感じる強烈な断絶感が、手に取るように感じられた。

 ユダの「あなたがわたしを殺す」という叫びは、祈りの朗誦のようだった。けど、むかしのプロダクションの音源を聴くと、めっちゃがんばってるよね。まだまだやれるはず。「I don’t know him」、ペテロ(テリー・リアン)もね。

世田谷パブリックシアター 『森 フォレ』

 装置家のつくりだした、大きな木の年輪の、傾いた舞台セットが、理詰めでこの芝居を説明してくるにもかかわらず、私のイメージはずっと、ここは(子宮)の中なのだという、どっちかっていうと強迫的な感じであった。「子宮」という日本語は、かつての男たちのせいでずいぶん貶められている。人をけなすのに使われた「子宮作家」とかのひどい言葉、「女は子宮で考える」という迷妄、それらがここでは空気を入れ替えるように刷新されている。

 この芝居では一貫して女の人たちが怒っている。狼のような女たち、分厚いゴムの壁を「突き抜けてくる稲妻」のような、あり得ない怒り、それを体現することができなければ『森』の価値は半減する。そこがねー。まずエメ(栗田桃子)の怒りが弱い。ゴム(絶縁体)で無力化されちゃうよ。無力化すると全ての台詞がうそっぽく聴こえる。あと、リュス(麻実れい)の歯のくだりも、脚本が飛躍したみたいに非現実的な感じがするから、押し殺した怒りがもっと必要だ。歯を折られることで、リュスがリュディヴィーヌ(松岡依都美)の赤ん坊のままでいるという暗示なんだろうけど、ここきつかった。

世界の歴史と、徐々に遡っていく二十歳のルー(瀧本美織)の家族史が混ざり合い、複雑を極める。(瀧本もっと怒る。稲妻がゴムの床を突き抜けるくらい)

 リュディヴィーヌとサラ(前田亜季)の追詰められたシーンの緊迫した芝居が素晴らしかった。サラがリュディヴィーヌに返したことを考えると、そのシスターフッド(だと思う私は)が鮮やかで美しい。亀田佳明のエドモンの台詞が明晰である。ルーの最後のひとことは、きちんと届き、この芝居を光らせ、成り立たせる出来だった。