代官山 晴れたら空に豆まいて 『LIVE MAGIC! 2021 Online』

「ライブ・マジック エクストラ」よりさらに5人少なく35人、なんかゲームのサバイバーみたいだけど、あたりました、今日も来た。くじ運がなくて、競争に弱く、子どものとき、棟上げ(家を建てる祝儀に、家の骨組みに大工さんが上がり、餅、小銭を撒く)で餅拾えたためしがなかったのになあ。上手の壁の作り付けの腰掛に、濱口祐自が座って話してる。真っ赤なジャケットに黒いつばつき帽。わくわくする。ふふふ。5人少ないだけで、前回よりも何か整然としている。お客さんが落ち着いてて、黙ってるのだ。うわーいって感じじゃない。ふふふってかんじ。

 「晴れ豆」の入り口はいって正面奥がステージだけど、客席を挟んで後方右手にもう一つ小さい舞台があって、そこにバラカンさんがいる。なぜか欄干と擬宝珠がある。小舞台に正方形のテーブルが運び込まれ、そこにPCが載ってて、それをみてる形。PCの隣に置かれた白ワインのグラスが光を集めてる。

 5分前にコロナ関連の諸注意などがあって、19時、始まりました。ユザーンとマバヌアです、と言ってさっと始まったのだが、え?え?となっちゃって全然追いつけない。U-zhaan(日本のタブラ奏者。)とmabanua(日本のプロデューサー、トラックメイカー、ドラマー、シンガー だとウィキペディアにある。本日はドラマー。)、二人はリモートで共演しているらしい。ユザーンのスタジオ(稽古場?)には織の絨毯が黒いソファの前に置かれ、その上に大小8つの太鼓がある。太鼓には銘々マイクが付いている。マバヌアのスタジオ(稽古場か?)には白いソファ、髭の濃い若い人で、グレーのTシャツと黒の短パンだ。アンビエントな感じの音楽に、それぞれが拍を(?)入れて行っているのだ、というところまでやっと理解する。1曲めのFluffyでは、ユザーンの小さい太鼓が聴こえない。あらあらあら。だめだね。ユザーンは小さい太鼓の頭を撫でてやっているように見え、これじゃあ裂帛の気合のドラムスと勝負にならないよな。

 しかし、2曲めはちがった。細かく早く正確なユザーンの音を捉えて、ドラムスがタブラの拍の頭(拍と拍が、せまい!)にシンバルを入れ、硬い音を鳴らす。かっこいい。現代的。ユザーンの太鼓も手前の大きいものになり、音は鋲を打って進むようで、左手は手首を太鼓につけ、右手は指先で、すごい速さで刻む。ドラムスは時間をカット、スライスしながらあっさり事もなげだ。音の断面が見える。ぴかぴかしてる。ユザーンのこみいったセーターが気になっちゃって気になっちゃって、メリヤス編みのセーターが肘のところで思いついたようにガーターになってて、胸に半分溶けたスヌーピーのような、鳥のようなマークが入ってる。深緑とからし色がきれい。

 全体に、聞き取るのが難しかった。説明もほしかった。リモートでこれだけの演奏凄いとは思うけど。

 次はラーキン・ポーのヴィデオ。青っぽいピンクのソファにメガン(バラカンさん発音、右側、姉)とレベカ(おなじく、左側、妹)がすわり、右手のスタンドライトから青っぽいピンクの光を浴びている。左上方に銀色と黒のテレキャスターストラトキャスター?が掛けてある。レベカは髪をセンターで分けてギターを弾く右の前腕に髑髏のカードを引く手が描かれている。メガンは前髪を作って下ろし、すこし顔を隠し気味。机の上にスティールギターが平置きされている。She’s Selfmade Man、晴れ豆で実際に聞いたときには見えなかったのだが、字幕でみると訳が「一代男」になってる。驚いた。西鶴か。「一代で財をなす」の連想だろうか。日本語になっとらん。カーンと突き抜けたヴォーカルでレベカは歌い切り、そこへスティールギターが入ると、全てがしっかり包まれたような、なんていうか、もっと大編成の音楽を聴いている気分になる。スティールギターに安定と大きさがあるのだ。2曲めのHoly Ghost Fireを聴いていたら、サビのBurn!っていうところで、レベカの額と鼻が、水面から出た背泳ぎの人の顔のように、映写幕から「出て」、こちら側に来た感じした。でも全身じゃない。まあ、全身出た感じしたら、来日公演要らなくなっちゃうけどさ。最後の曲の歌詞、やることということが一致しない人は嘘ついてるんだよ!というのを遠い親戚のお姉さん(て若いけど)の忠告のように聞きました。こういうのが、「シスターフッド」なのかもね。

 次のヴィデオはアーレン・ロス。ニューヨークからだ。1977年と1982年に来日しているのだそうだ。スティール・ギター(平置きじゃない方)がすっごくうまくてかっこいい。後ろに自分の部屋(スタジオ?)の壁いっぱいの作り付けの本棚があり、ずいぶん中身が外に出てるらしく、残った本がみんな傾いている。アーレン・ロスはずっと人前で演奏して生きてきた人なんだなということがヴィデオを通してわかる。カメラに向かってひとり演奏するのが、見ていてなんかさびしそうなのだ。漠然とした不安感(「届いているのかなこれ?」的な…)がある。「Landslide」「Tambling」、びしっとした出来なのに、アクースティックギター(バラカンさん発音)に変えた「Cruising Coupe」は、不安感が頂点なのか、「とめ」「はね」「はらい」はしっかりしてるのに、中間部分が何か練習ぽい。つづく「Burnt Child」はギターの音が、ギターの心臓から、ちゃんと出てるのに、声はマイク通してなくて、なんだよって感じ。漠然とした不安が、ここに出ちゃっているよね。ミュージシャンの人全体の不安を、ふと考える。(コロナ。いつまでつづくのだろう。)最後は田舎者の女の子の歌でした。

 青いボーダーTシャツで、ギターの中をそっと覗いているみたいに淡々としているのに、つよい絃のうねる連なりが、かっこよかったね。

 途切れずライブは続く(Majestic Circusと民謡クルセイダーズは省略しています)。大阪の20歳の女性ギタリストKOYUKIの演奏だ。6月10日にデビューしたそうだ。

トミー・エマニュエルの「Only Elliot」をまず演奏する。ああ~二十歳にしか出せない音だ~。と思うのだ。なんかグリーン・ノートの香水みたい。爽やかだ。そりゃあトミー・エマニュエルに比べると、「音を支配下に置けてない」かもとは思うけど、このいまの音が、トルコ石のついたすてきなテンガロンハットを、ぎこちなくかぶり直す若いKOYUKIに似合ってて、とてもきれい。「ワルプルギスの夜」(オリジナル)、カヴァー曲2曲、「Early Bird」(オリジナル)、ときて、最後の「Green Witch」で、腰を抜かした。ひとつ前の綺麗な曲が、朝ドラみたいな、万人受けする曲、とがっかりしていたので、驚きもひとしお。手あかのつかない、嶮しい曲だ。これ、ミュージカル『ウィキッド』のエルファバ(手あかのつかない、嶮しい女の子)をモデルに作ったのだそうだ。とても心の深い所から汲み上げた曲のような気がする。素晴らしかった。

 夕焼けみたいな色調の、キズの入った凝った映像で始まるエチオピアと日本の民謡交換プロジェクトは、エチオピアモーセブカルチュラルミュージックグループと、日本のこでらんにーという現代民謡グループ(?)のライブだ。一弦のみの絃を半月型のラフな弓で弾くのに、意外なほど表現力のある楽器(マセンコというらしい)と、津軽三味線が控えめに、でも段々熱っぽく掛け合いをする。ソンブレロをかぶった日本側女性と、エチオピア語で共演する(リモート)歌もある。それとは逆にエチオピアの人が3人並んで「えんやとっと」とずーっと掛け声をかけてくれるシーンもある。

 よかったんだけど、「意志の交換」はどこまでできていたかなあ?日本の人ははっきりと「おもしろ」プロジェクトと認識してるみたいだったけど、もうちょっと深い次元で面白かった方がよかったんじゃないの。そのためには、なまのライブが必要だよね。

 サム・アミドンは、自分の家のスタジオで、ヴィデオを撮っている。赤い、ごく薄いカーテン、赤いきのこのようなランプ、白い引出しの箪笥の縁には、きれいな模様が描きこまれている。その奥には窓があり、緑の木々、白いガーデンチェアがうっすら見える。サム・アミドンはとてもヴィデオカメラに近く寄る。子供のころから撮りなれ、撮られ慣れ、している人の位置だね。もしかしたら、ふざけて「自分のステージ」をこっそり録画した子供時代があったのかも。水色のマグカップに紅茶のティーバッグを浸したまま、時折口にする。おーうーちー。後ろで明るい緑がぼんやり揺れる。サムの麻の細かいチェックのシャツの身頃に、初夏の光線が透けている。

 バンジョーを右胸の上の方に構え、横顔を見せて自分の出す音を聴く。「Light Rain Blues」、ふりつづける小雨の伴奏だ。かすれ声も歌の一部らしい。もし間違ってかすれ声を出していたとしてもあまり堂々としているし、成立している。違和感ない。字幕、「降り」だよ、「振り」じゃない。わざと?フォークって綴り間違いが多いって何かで見た。それから「As I Roved Out」、冬の寒い夜、突然失恋したことに気づく男。彼女が恋人といたんだろうね、サムの声は正調フォーク歌手のとてもいい声で、いろいろ実験したくなるのわかる。ギターもフィドルもうまい。フォークソングには殺人バラッドという分野があって、その中の一曲を歌う。連れ出されて殺されるポリー、誘い出したウィリーは前の晩ポリーの墓穴を掘っていた。これどう受け取ったらいいのかなー、若い女への警告と、「あ殺されちゃうよ」というドキドキを味わう、かちかち山スタイルかな。こちらを見るサム・アミドンが表情を押さえているのでちょっと怖い。な、コワイだろって感じだ。最後の歌は妻子ある男が若い女と駆け落ちするものだったけど、こっちは何も起きない、天罰がない、不公平だ。そういえば「女を外に出すな」っていう歌のフレットレスバンジョーの音が大人っぽくてよかった。でも「おんなをそとにだすな」ってさあ。ありえん。その曲の終りにサム・アミドンは「家でギター弾きすぎた人」みたいにめちゃくちゃに音を出してて、それでも一番おわりのコードはピシッとしていて、あきれたり感心したりした。このようにしか、歌いようがないよね。

 濱口祐自、六日も酒を抜いて、かっこいいブルースのフレーズがどーんとくる。きたーきたきたと思う。ライヴマジックだね。時折フレットを押さえるほうの左肩をきゅっと上げつつ、濱口祐自は危なげなく弾く。でも、すっごい練習したってぽろっというから、ギタリストも大変だね。とてもとても緊張して、「てがすべらんことをいのるわ」といったりしていたが、今日弾いた「枯葉」がとても繊細。ベルギー極細ボビンレースで作った美しい華奢な枯葉だった。最後に響かせる「ぴーん」という音もいい。今日の濱口祐自の話はどれも可笑しくて、私はお腹の底からこっそりわらった。「ショパンショパンコンクールに出たら予選でおちる」というのがほんとそうだなと思っちゃったよ。情景が見える。講評を聞くショパン

 さて、「隣に住む四つ年上のにいさん」が弾いてくれたウクレレの「禁じられた遊び」で感動してギターを始めた濱口少年が現在弾く「禁じられた遊び」だ。ナルシソ・イエペスの弾く曲が有名だから、私も耳の底にきちんと残っている。濱口祐自は最初の主旋律を響かせない。音の一つ一つがぽつんとしている。しかも最初だけ。んー?となったが何だろ、あれかな、あそこは子どもの声(パリ脱出で親とはぐれた少女と、農家の少年が十字架のお墓を作って遊ぶ)なんじゃないかなあ。だったらもうちょっと丸い音でいいなとおもった。転調のとこ微かに失敗してたけど、あれは過去を思い出す大人の声だったりして。

ヒューマントラストシネマ有楽町 『草の響き』

 「その六月、どんなあてもなかった。」(佐藤泰志『草の響き』)

 素晴らしい書き出しだ。身体の中に暗い空洞が見える。そこは塗り込められたように真っ黒で、目を開けていても閉じていても、大して違いはない。手を伸ばしても何にも触らない。その場所に佐藤泰志は居る。虚無と絶望、不安を言い表すこの一行なしに、映画は始められなければならない。たいへんだねー。

 この映画、「しゅっとしてない」と思ったよ。それはなぜか。観ながら、「誰が死んでも不思議ではない」という不安感が来ないのだ。夏のいきれる草の先が、尖ってない。丸い。和雄を演じる東出昌大はがんばっている。まさに五割増しでよくなった。自律神経の失調と診断を受け、ランニングを医師に勧められた和雄の、パタパタしたかっこ悪いフォームが、とりつかれたように走ることで日に日に改善し、ぶれない安定した形になってゆく。神経が擦り切れてパニックになり、待合室で妻(奈緒)の顔を見ても頬が攣って笑えない所もいい。和雄には二回人に触れるシーンがある。ここがなー。人の死をひきずる少年弘斗(林裕太)の膝に触る所は不用意だし、妻の手を握るところはあまい。結局なに、和雄は大人になりきれず、人が当然一人で抱えなければならない孤独が抱えきれないということ?「心にさわれない」(弘斗のこの台詞があいまいな発声、録音でよくない。大切な台詞なのに。)ってことが響かないよ。原作にあるえぐれるような虚無が見えん。ここへきて東出が私生活で「小火」くらいの炎上をしているが、東出自身の大人になりきれなさ、甘さが芝居に出てしまっている。はやくおとなになれー。次は六割増しで頼みます。大東駿介好演。こないだうちテレビで見たまずい芝居がうそみたい。

Bunkamuraル・シネマ 『TOVE/トーベ』

 「お互いに、ああしろこうしろと押し付けないで、ただ一緒にいるだけでは駄目なの?仕事だけじゃない、人生についても、そして考えることについても自由でいたい。上下関係をもたない生き方」(『トーベ・ヤンソン 人生、芸術、言葉』ボエル・ヴェスティン著 畑中麻紀+森下圭子訳)思春期にこう考えた人(特に女の人)は多いと思う。しかし、生き方をこの考えで貫いた人はきっとほんのわずかだ。男の子と付き合ったとたん、その「彼女」(モチモノ)のように扱われるのに仰天したあの時、苗字を変えたあの時、親戚のおじさんに屈服して話を合わせたあの時、「うまくやる」ために身を躱してきた自分と、映画の中の愚直で、思ったとおり生きるトーベ・ヤンソン(アルマ・ポウスティ)を比べてしまう。あの不器用さが、かっこわるくてかっこいい。女性の演出家ヴィヴィカ(クリスタ・コソネン)と恋に落ちる時も、彼女はほとんど逡巡しない。自分たちのことを「オバケ」と呼びはするけれど。作中、スナフキンのモデル、アトス(シャンティ・ローニー)との結婚を決めた翌朝、ベッドの中でアトスから顔を背け、トーベは「ヴィヴィカ」と小さい声で子どものように言う。それがまるで、心の中にできたひびわれのようで、そしてそのひびわれが画面いっぱいに広がっていくようで、「心の真実」から目を逸らさない彼女の生き方を強く感じた。ここがこの映画で一番いいよね。

 トーベには芸術家としての矜持がある。「本流の芸術家」である油絵画家として名を成せない煩悶(それは父との齟齬ともつながっている)薄いね。ペン画を誉められるとき、もっと複雑でいい。私もペン画の方がいいと思うし。若い女には自己評価と仕事と愛の三つの関門がある。『トーベ』は愛についての物語だった。はっきり言うと、別の二つの側面からもトーベの事を深く見たかったのである。

パルコ劇場 PARCO Produce 2021『ジュリアス・シーザー』

 芝居の帰り、ターミナル駅始発電車の運転手は女性だ。先頭車両の正面と側方を指さし確認して、小柄でロングヘアの彼女はドアを開け運転席へ入ってゆく。思春期の少女たちの鬱、というか無気力状態を改善するためには、社会のあらゆる分野で活躍する女の人の姿をたくさん見ることが大切。って何かで読んだなあとぼんやり眺める。おおよそ、主人公→奥さん→おかあさん→おばさん→おばあさんとなっている女の俳優の役柄の幅はとても狭く、限定されている。今日観た『ジュリアス・シーザー』は、全部が女性キャストで、その幅を広げるのに役に立っているとは思う。

 女性の演じる策士、女性の暗殺者、女性の英雄、なかなか演じる機会のない役が登場する。シェイクスピアが一冊の楽譜ならば、今日の俳優たちはよく歌えている。朗々と、又は小声で、流れるように淀みなく、高い所から低い所へ、低い所から高い所へ、頁を繰って歌は美しく進む。演出通りだ。けどなー。演出しっかりしてて役者もそれに応えてても、新味に欠ける。ブルータスの吉田羊、シーザーのシルビア・グラブ、この二人は役に味がすこし出てるけど、演出次第でもっとよくなったのでは?ばしっと声の出るキャシアス松本紀保にはびっくりしたが、譜を追うのにいっぱいいっぱいで、役に解釈があるとまではいかない。なぜブルータスと仲たがいするか自分なりに肚落ちしてる?真面目だよねーみんな、真面目もいいが、演出(男性、森新太郎)の「生徒さん」になっちゃだめ、企みが必要。驚かせてやんなさい。セットは曇った鏡で、登場人物のゆがむ自己認識を表わしたり、いくつも反射してこの『ジュリアス・シーザー』の世界の普遍性を垣間見せたりする。松井玲奈アントニー、譜面はもっと読みこまなきゃ成立しない、3度出てくる台詞は畳み掛けたりクレッシェンドしたり、工夫がないなら演説が無駄。

代官山 晴れたら空に豆まいて 『LIVE MAGIC !2021 EXTRA』

 すんごくくじ運のいい40人の人々が、次々に「晴れ豆」に入ってくる。わくわくしてる。身体が楽しそう。バラカンさんのいる上手後方から順に、席が詰まっていく。ふと上方をみると、照明を吊るすパイプがかすかに湾曲し、端でミラーボールが控えめに回っている。それなのに私の心は暗い。グレイトフル・デッド、知らないんだもん。ジェリー・ガルシアの『Shady Grove』(1996)が好きだっただけ。でもあのガルシアのアルバムは、主に節(tune)で聴ける曲だよね。グレイトフル・デッドって、サウンドじゃない?ちがう?とわたわたしているうちに5分前になって、バラカンさんが注意事項と今年のTシャツの説明を始める。2021のオフィシャルTシャツは、ネルソン・マンデラの「It always seems impossible until it’sdone」という言葉の入ったものだ。何事も成功するまでは不可能に思えるもんだって意味だって。ついさっき、茶のフェルト帽、眼鏡の人がすーっと客席を横切り、上手(右側)からステージに上がった、と思ったら、バラカンさんの説明の間、幕代わりに下がった白いスクリーンの下手(左側)の端っこで見切れてる。日常から非日常へするりと通り抜けて行ったなあと、少し不思議な気持ちだよ。一分かけてスクリーンが上がり、Majestic Circusがそれぞれうねるように音を鳴らしている。あの茶色の帽子の人は「リードギター」のようだった。長くのばしたそれぞれの音が、ばらばらのまま曲に入る。黒のキャップを後ろ前にかぶり、アフリカ的なオレンジのコットンパンツをはいた人(「サイドギター」?)が中央左側、グレーのTシャツの女の人が右側で歌い始める。うーん。ばらばらだ。ボーカルの女の人が不安そう。しかし、段々に合ってくる。2コーラス目から違和感がなくなり、底の方からバラバラになりそうなのを、茶色の帽子のギターが動じないでしっかり支える。女の人が楽しそうになってきた。ギター、上手だなあ。歌はちょっとで、あとは演奏だ。私にも曲名がわかる「Dancing In The Street」になったら安定し、グルーヴが生まれる。これがグレイトフル・デッドかー。Majestic Circusを通して学習する。一人一人がきちんと個人で、体力の続く限りその日だけのグルーヴの演奏をするんだなと思う。一日一回、真剣勝負で混ぜる絵の具みたい。終わりかなと思っても終わらない。ベースも少しはなやか。それも特徴だって何かでみた。ドラムスとコンガ(だと思う)もいいが、なんといってもこのバンドのこころはギター。まわりが調子でなくても粘り強く、かっこよく弾く。この人がしっかりしてるから、全員最初に登場した時とは別のバンドみたいである。他に「I Know You Rider」「China Cat Sunflower」など。ライヴができてうれしいです、といってステージを降りる。ライヴが観られてうれしいよ、ありがとう、と思う。

 次は今までのステージと反対の場所にある小さな舞台で、ママドゥ・ドゥンビア(Mamadou Doumbia)のコラとギターの演奏だった。オレンジと黄色の明るい上下。観客の背中に「まわってくださーい」という。あっ賢い声。この声好きだ、でも歌わないのだ。座った膝の前にコラがある。クリーム色と薄い褐色の瀟洒な色合わせで、左手で伴奏し、右手でメロディを弾いているように、私の席からは見えたなあ。音に合わせて笑顔になるせいか、まるで口から音楽が空に昇っているみたい。エスポワール、希望という曲です。というけれど、あまりにきれいな曲なので、苦しい現実がちょっとだけ見えてしまう。コラには半音がないそうだ。ピアノの白い鍵盤部分の音階だって。逆にペンタトニック(半音だけの音階、五音音階、ペンタトニックスケール)はアフリカではポピュラーなものだといっていた。ギターをペンタトニックで弾くとブルースだった。サリフ・ケイタのケイタは王様の血筋で、ドゥンビアは武人の血筋だって。「ドゥンビアは(社会の)センターだよ」とちょっと笑って言っていた。マリの北部はイスラム原理主義アルカイダ的集団に占拠されていて、たいへんなのだそうだ。「あの子日本に行ったってー」「えー」という、高校の同窓会を頭の中で暢気に組み立てていたが、それを聞いて辛くなってしまったよ。

 矢継早だが次はバラカンさんといとうせいこうさんの対談、いとうせいこうホットドッグプレスの恐ろしく優秀な編集者。ってとこで記憶が途切れてる。ごめん。小説家(『ノーライフキング』!思い出した)で、ラップをやったり今はポエトリーリーディングをしているそうだ。二人はシリア難民やミャンマーの軍政のことを話しあう。中では、『禁止です』と言われると思考停止(?)になっちゃってそこから先を考えようとしない自分(いとう)の話が印象に残った。意志ある所に道はできる、って私もあんまり考えてないかも。マンデラのTシャツが必要。軍政ミャンマーでは音楽も自由でない。それより少し前、石谷崇史という人がドキュメンタリーに撮った円筒状の打楽器の演奏が素晴らしかった。(you tube)環状に吊った大小の太鼓を、真ん中に立つ奏者が回転しながら叩く。吊るされているから透明感のある音がする。サインという楽器だそうだ。

 さて、舞台が人でぎっしり。10人くらい。ボーカルだけが薄鼠色の着流しで、あとはなんだか原色の、無国籍の服。

 「炭坑節」「虎女様」(2コーラス目の歌いだしを「あ…」としくじっていた)「おてもやん」(CDなどより掛け声も歌もいい)「ホーハイ節」「木曾節」(新曲)「貝殻節」(新曲)と続いてゆく。

 あの、なんか、金太郎飴のできるのを、逆回しで観てるみたい。民謡がちっちゃく固まった金太郎飴だとしたら、とんとん切られたそれを熱して一つに繋ぎ、引き伸ばされたのを寄せて凝縮して、白く包まれていた筈の原色の中身が、ばーんと外へでて「束ねのし」みたいに広がっている。

 「ソーラン節」の中間部の伸ばしたボーカルの声で、箱に蔵われていた民謡が目を覚ますのが聴こえ、見えるようだった。

 民謡クルセイダーズ、ライヴの喜びがはじけてたねー。よかったです。

新橋演舞場 花柳章太郎 追悼 『十月新派特別公演』

 『小梅と一重』あのー、下座の音楽が大きすぎて、小梅(河合雪之丞)が出てくるまで台詞が聞き取れない。小梅が出て来てようやく、この芝居に色彩が載る。たぶん、一重(水谷八重子)が「一中節」の師匠であることから、一中節がすごく重要なのでは。水谷の台詞回しは一中節を模しているのかもしれず、説得力があり、上品。けど、声が小さい。

 一重が芝居茶屋うた島の座敷で、「うかがいましょう」とやや高くいうと、うた島の女将おかね(伊藤みどり)が「ご存じでございましょうが」と低く出る。音楽みたいだった。

 花柳界では新橋より一段低く見られる新富町の芸者蝶次(瀬戸摩純)は、門閥も有力な贔屓もないが実力ある、今売り出しの役者澤村銀之助(喜多村一郎)にひときわ愛されている。銀之助には新橋の一流芸者、小梅の強力な推輓があり、蝶次は懊悩する。

 瀬戸、美しく可憐だが、悩みが見えん。役柄を貫く苦しみがないと、剃刀を持っても、「ああ、剃刀もってるな」としか思われない。悩みは必ず身体にでる。

 喜多村緑郎が病気で休演(早く直しなよ。5割増しの健闘を祈ります。)のため、喜多村一郎がつとめる。メイクも似合い、ハンサムである。しかし、息が浅く、短い。深く息しないと考えが浅く見える。「いやだ、」と言って飛び込んでくるのに、なんだか「やだいっ」て子どもの駄々のようでした。この人の心映えが深くないと、女の人たちが刃物の先のような心持で悩んでいるのが馬鹿みたいに見えてくるよ。息を吐ききる。それと、一重が衝立の向きを変えるのが、そのあとのシーンで重要とはいえ理由がわからなかった。

 

 『太夫(こったい)さん』長い芝居なのに皆集中が感じられ、目が足りないほどだった。

 最後におえい(波乃久里子)があて今死んでもいいくらいや、というと、話が深くなってくらくらする。いい時、悪い時、楽しい時、悲しい時、いろんな時が彼女の上を巡り、「死にたいとき」も「死んでもいいとき」も訪れて、また去ってゆく。苦しみをなくし、一番素晴らしい時を引き留めるにはそれしか手がなく、その思いもいつの間にか島原宝永楼に編み込まれて過去になるのだ。三幕のモブ、もっときびきびしたらいいと思うが、宇宙の暗がりの片隅に、賑やかな宝永楼の灯りが見えるようないい幕切れだった。

 藤山直美、すうっときみ子を自分のものにして演じてるけど、三味線が上手すぎる。もっと、訥々とした、まるい、いい音であってほしい。歌下手もリアリティがない。おえいもこれでは怒りにくくかわいがりにくい。この人の少しゆっくりしている容子は、何を基準にしているのだろうか。それがわからない。

 田村亮の隠居は姿も綺麗でハンサムで、なぜ女衆たちがスイミー(海を泳ぐ小魚の群)みたいになってついて歩かないか謎。声ちいさいぞ。

 深雪太夫(山吹恭子)がずっと肩をもんでもらっててしんどそうなんだけど、「出の姿」になったらぴっと気合い入れるとこまで観たかった。

 玉袖(春本由香)、声が誰より出てる所を評価する。しかし宝永楼とおえいにとっては敵役の感じである。ばしっと行きましょ。あっあのひと、って二幕で思い出せないとだめじゃん。

 おきみの夫(鈴木章生)芝居きちんとしている。髭のとこ、もっとわらえていい。あと、子役にあの手編みの白い帽子と白いタイツはかせたのだれ。抱かれた足先がくんにゃりして、ものすごくかわいかったね。

東京建物ブリリアホール 岩井秀人(WARE)プロデュース『いきなり本読み!in 東京建物 Brillia HALL』

 戯曲を黙って一人で読む。ああ、これ、こんな話なんだな、はいはいと思う。面白いシーンに笑ったりする。つまらないシーンを残念だなと思う。光線は天から降り風はそよそよ、世はなべてこともなし。で、他人が読みあわせるのを聴く。すると、中に、圧倒的に言葉を立体化できる人というのがいて、光は逆光となって台詞を照らし出し、雷鳴轟いて雨がざぁざぁ降り、世界が不穏に光ってくる。そんな人が4人いて台詞を読み上げたらどうなるか。て感じかな。でも今日は、役者を上回って戯曲(上田誠『来てけつかるべき新世界』)が面白すぎた。演出の岩井秀人が、同じシーンを配役を入れ替え2回やるが、「早く先に行こうぜ!」「ていうかもう立とう(立稽古しようの意)ぜ!」とおもっちゃったよ。

 スチール製の横長の折りたたみ机が5つ、折りたたみ椅子が5つ。それぞれの机の上にスタンドつきのマイクとあと小さいカメラか何かがセットされている。譜面台にも見える台本をのせる台。法被を着た岩井秀人が出て来て演出の岩井ですという。演出するのか。池谷のぶえ藤井隆水川あさみ荒川良々が登場。稽古着の体(てい)で来てくださいと言われているらしく、池谷のぶえは本当に三本ラインの黒の稽古着上下。岩井がどんな風に役を入れ替えても皆平然とこなし、「口の中が腫れた感じで」という指示も自分で思ったようにやってゆく。床屋のおじさんの荒川良々、犬を撫でながら笑うラーメン屋水川あさみ(1回目)、健気な串カツ屋の少女の藤井隆、AIの母(エフェクトいる?)池谷のぶえがよかった。

 演出がほめても(岩井秀人!誉めてばっかじゃん)誰もうれしがったりせず、淡々としている。日頃どんだけ誉められているのか。「おだて」と「誉め」の見極めがついてんだろか。